何に対しても焦りやすい、パニックになりがちな人が持つべきプリンシプル


苫米地式認定コーチ、TICEコーチの高嶋芳幸です。

「何をするのにも焦ってしまい、パニックになってしまいます」

このような悩みを持つ方は多いのではないでしょうか。

こういう人を観察してみると、多くの場合は一生懸命に物事に取り組んでいて、決して手を抜こうとしているわけではないようです。

にもかかわらず、差し迫った期限があったり、責任の重い仕事であったりというチュエーションで、つい焦り、パニックになってしまいます。

そしてそういう場合は往々にして、致命的な失敗をしてしまうものです。

そこでこの記事では、大事な局面ほど焦ってしまい、パニックになってしまう人が普段からどのようなことに心がけておくべきかについて考えます。

なぜあなたは焦ってしまうのか

さっそくですが、何に対しても焦りやすく、パニックになる人はなぜそうなるのかについて答えを書きましょう。

答えは、「準備不足」です。

そんな単純なこと、、、と思われたでしょうか。

しかし、実際に準備不足なのです。

このように言うと、実際の人を例に挙げて反論をする人がいます。

あの人はどんなに急な状況で物事を振られても、即座に一定水準以上の成果を出すことができています、と。

確かにそういった人はいるでしょう。

しかし、そのような人も、その人の中ですでに準備されたものを上手に組み合わせ、まるで即興で一から十まで生み出しているかのように見えるだけなのです。

どんな人であれ、準備がなければ上手に対応する見通しが立ちません。

そうなれば、焦ってしまったり、パニックになってしまうことも無理もないでしょう。

よって、焦りやすくパニックになりやすい人は、普段から準備をするということを心がければよいのです。

その準備に関して、具体的に考察を与えましょう。

ここで言う準備には、二つの種類があります。

マインドのレベル、タスクのレベルです。

マインドのレベルでの準備

まずは、マインドのレベルでの準備について説明しましょう。

コーチングにはマインド(mind)という概念があります。

これは一般に、脳と心(の働き)と理解されます。

本来であればこういった説明にももっと長く丁寧な記述が必要なのですが、ここでは一般に「心と呼ばれているもの」であると理解しておけばよいでしょう。

さらに、コーチングでは、マインド内部の具体的な働きに対しても複数の概念が用意されています。

その代表的なものが、コンフォートゾーン(comfort zone)です。

コンフォートゾーンとは、もともとは心理学の用語であり、コーチングの創始者であるルー・タイスがコーチングの説明原理に採用することで、一般層にも広く浸透した概念です。

コーチングとは、マインドを上手に使いながらゴールに向かって進むための知識・技術のことです。

そのためにはこのコンフォートゾーンという概念が有用だったということです。

さて、コンフォートゾーンの定義は「慣れ親しんだ、安心できる領域」のことです。

この場合の領域とは、物理的なものから情報的なものまで含まれます。

通い慣れた喫茶店や、与えられて数年が経つ役職などがコンフォートゾーンの好例であると言うことができます。

どこでもコンフォートゾーンになるよう準備する

一般に、人はコンフォートゾーン内部ではリラックスし、高いパフォーマンスを発揮することができるとされます。

逆に、コンフォートゾーンを一歩外に出てしまうと、緊張状態になり、冷静に物事を進めていくことができなくなってしまいます。

焦ってしまい、パニックになってしまう人は、四六時中そのような状態であるわけではないでしょう。

このコンフォートゾーンから出てしまっているからこそ、焦り、パニックになってしまっているのです。

たとえば、人前に立って話す場面になるといつも焦ってパニックになるという人がいたとします。

その場合は、「人前に立って話す」という状況そのものがコンフォートゾーンの外側になっているのです。

対策は簡単で、自分にとってことさら焦り、パニックになってしまう場面をコンフォートゾーンにしていまえばいいということになります。

とはいうものの、実際にその場面をたくさん経験して慣れることは大変です。

ここで準備という発想が出てきます。

何度もマインドの中で、その場面を繰り返し、マインドの中でコンフォートゾーンにしてしまえばいいのです。

実は人間の脳は、実際に起こったことと、脳の中で仮想的に起こったことの本質的な区別はつきません。

この性質を利用して、あらかじめ焦りやパニックが予想される場面を、ポジティブな情動とともに脳内で繰り返しリハーサルし、コンフォートゾーンにいれてしまうという手段をとります。

そのための具体的なテクニックとして、アファメーション(affiermation)や、ビジュアライゼーション(visualization)があります。

いずれにせよ、つい焦りったりパニックになりがちな場面を、あらかじめコンフォートゾーンにいれておくというやり方で、安全かつ効果的に準備をすることができるのです。



ゲシュタルトとは

さて、次にタスクのレベルでの準備の説明に入っていきましょう。

まずは、コーチングの用語であるゲシュタルト(gestalt)という概念を理解していただきたいと思います。

ゲシュタルトとは、部分と全体が双方向的に関わりあうことで出来上がるあるひとまとまりのことを意味します。

少しわかりにくいと思いますので、具体的に考えてみましょう。

パソコンを思い浮かべてください。

当然のことながら、パソコンには部品があります。

ディスプレー、スピーカー、キーボード、CPU、HDなどです。

これらが総合に組み合わさり、全体としてひとつのパソコンとなります。

そして同時に、パソコンという全体像があるからこそ、各パーツの機能が決まるとも言えます。

このときパソコンは、部分と全体の関わりあいによって生じるひとまとまりとみることができます。

こういったありようのことをゲシュタルトというのです。

さて、この例はパソコンという形のあるものでしたが、なんらかの行為もひとつのゲシュタルトと考えることができます

「朝の身支度」を例にあげてみましょう。

朝起きてやることを並べてみます。

顔を洗う、トイレに行く、朝食をとる、歯を磨く、髪の毛をセットする、(必要な人は)メイクをする、着替える、、、といった感じでしょうか。

そして、これらが集まって「朝の身支度」というゲシュタルトを形成しています。

焦ったりパニックになることを回避するためには、タスクの集積としてのゲシュタルトを最適な形に準備をしておくという発想が必要になります。

高い視点からゲシュタルトを観察する

ゲシュタルトを認識するためには、抽象度(levels of abstraction)を上げておく必要があります。

抽象度とは、コーチングを学ぶ人にとってはおなじみの概念のはずですが、ここでは「視点の高さ」と理解をしておきましょう。

たとえば、あなたが「朝の身支度」をしていたとします。

その中には本来、様々なタスクがあります。

通常タスクに取り組む際、いま取り組んでいるタスクは「朝の身支度」というゲシュタルトの一部であるという発想はないはずです。

それぞれのタスクをやることにただ何も考えずに流れでやっているだけでしょう。

そして、少しでも想定外の出来事が生じたら、焦ったりパニックになってりしていしまします。

それを回避するために、抽象度という概念が必要になります。

タスクのひとつ上の視点に上がり、「朝の身支度」の視点からゲシュタルト全体を俯瞰して観察します。

すると、タスクがどんな順番になっているか、どこまでが「朝の身支度」に入るかなどと考えることができます。

これは、ただなんとなくタスクを重ねた結果として「朝の身支度」が完了するとというアプローチにはない準備です。

ゲシュタルト最適化し続け、上手に組み合わせて準備する

「朝の身支度」というゲシュタルトを意識できたら、その中にあるタスクを最適化していきます

・この順番が一番いいのだろうか

・同時にやることはできないだろうか

・このタスクはいらないのではないだろうか

など、「朝の身支度」がもっとも最適な形のゲシュタルトになるように調整するということです。

歯磨きと新聞を読むことを同時にやってみたり、髪の毛をセットするのと顔を洗うのを入れ替えてやってみたりと、試してみましょう。

やがて、これが今の段階では最適だという形が出来上がったら、それを無意識に落としていきます

こう書くと難しく思えますが、要するに何度も練習して考えなくても狙ったようにできるようになることです。

このように、ひとつのゲシュタルトを最適な形にして無意識化する作業を、思いつく限りすべてにおいてやってきます

そしてゲシュタルト同士を、上手に組み合わせていきます。

さらに、日常過ごす中で、たまに振り返ってみて前に作ったゲシュタルトをアップデートすることも忘れないでください。

このようにタスクを最適な形で実行することを準備しておけば、あとは基本的にそれをこなすだけです。

しかしそれは、今までのようななんとなく出来上がった流れで行うこととは違います。

最適のゲシュタルトを維持するために、日々観察し、無意識に落とすという高い視点から全体をコントロールするという視点が入っています。

そのような視点を維持すれば、少しくらい想定外のことが起きたとしても、瑣末のことに気をとられず、焦りやパニックが最小限で防ぐことができるはずです

それどころか、あらゆる知的活動のパフォーマンスはどんどんと上がって行くでしょう

いずれもマインドの中の話である

さて、準備をするという観点で二つの視点を紹介しましたが、結局はコンフォートゾーンもタスクもマインドの中での話です

要するに、マインドの中をいろいろな観点から設計し、準備をしておくという発想を持ちましょうということです。

ルー・タイスは、アファメーション、ヴィジュアライゼーションのテクニックを用いて、普段からマインドの準備をしておくことを次のように表現しました。

 

「準備して、準備して、準備してーーーー流れるように動く(prepare,prepare,prepare—-flow)」

私たちはマインドを作り込む方法を手に入れています。

ぜひ、どんな局面でも焦ったり、パニックなったりしないようなマインドの準備をしてみてください。

まとめ

何をするにしてもつい焦ってしまい、パニックになってしまう人は、準備をしておくということでした。

いついかなる状態もコンフォートゾーンになるような準備と、具体的なタスクから構成されるゲシュタルトをたくさん用意し、それを最適化し続けるという準備をしておくことでした。

それらはいずれも、マインドの中での準備ということでした。

参考にしていただけると幸いです。

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成功法則を探し求める人たちが知っておくべきこと


苫米地式認定コーチ、TICEコーチの高嶋 芳幸です。

世の中にはさまざまな成功法則があります。

仕事で成果を出すためのものであったり、人間関係を円滑に進めるためのものであったり、究極的には幸せになるためのものであったりと、実にさまざまです。

私はよく「いったいどの成功法則ががいいのですか」と尋ねられます。

具体的な方法がたくさんあって、何を拠り所にすればいいのかわからないのでしょう。

そこでこの記事では、そのような成功法則にあふれた現代で、私たちは成功法則をどのように捉え、扱っていていけばいいのかについて書いてみたいと思います。

成功法則

成功法則にはさまざまなバリエーションがあります。

たとえば、

・できるビジネスマンは少食の人が多い、だから少食になりましょう

・よい経営者であればあるほど、腰が低く、物腰が柔らかいものだ

・「ありがとう」という言葉を何度も繰り返し唱えせば、幸せになれます

・会社を発展させたいのならトイレを掃除しましょう


などといったものです。

実にたくさんの種類があるこういった成功法則ですが、突き詰めるとこれらはすべて、

「◯◯すれば、うまくいく」

というものです。

本当にこれは正しいのでしょうか。

成功法則への誤解

よく考えてみればわかると思いますが、誰のどのような状況に対しても正しいといえる「◯◯すれば、うまくいく」というものはあり得ません

少食にしてもビジネスでうまくいかないことだってあるだろうし、「ありがとう」をいくら唱えても不幸せな人もいるでしょう。

能力がずば抜けて高い経営者の中にも、高慢な鼻持ちならない人もいます。

また、トイレが汚くても会社が発展することだってあるはずです。

そもそもの話、この世の中で確定的なものは何一つありません。

あるのは確率として高いか低いかの問題だけであり、「必ずこうなる」という状態が作り出せないことは、科学的にも明らかにされています。

よって、上記の成功法則は、

・少食の人の方ができるビジネスマンである確率が高い

・よい経営者ほど、腰が低く、物腰の柔らかい人が多い

・「ありがとう」という言葉を何度も繰り返したほうが、幸せになれる確率が高い

・トイレがきれいな方が会社が発展する確率が高い

と言い換えられるべきなのです。

もちろん、その根拠やどのくらいの確率かまでしっかりと説明される必要があります。

 

完全情報への憧れ

実際には、成功法則について書いてある本も、明示的、暗示的に「絶対ではないが確率は高い」という表記をしているのかもしれません。

しかし、これは読み手の問題ですが、どうしても「必ずうまくいく方法」を欲しがってしまい、ついついそこに絶対を見出してしまいます。

人間は、そもそもが不完全な世界に生きる不完全な情報処理システムであるので、本能的に完全なものを求めてしまうという性質があります。

だからこそ、「◯◯すれば、うまくいく」といった成功法則を求めてしまうのです。

ほどほどの参考程度にするくらいならばいいでしょう。

しかし、ついのめり込んで妄信し、極端な行動に出てしまったりすることがあります。

たくさんのお金をつぎ込んでしまったり、迷惑がられても肉親、友人、知人等に熱心に勧めて回るなどといった行動です。

あるいは逆に、うまくいかないと感じ始めると「この成功法則は完全に間違ってる、騙された」などといって全否定に走ったりもします。

その場合も懲りたわけではなく、次なる「完全な」成功法則を求め、さまよい続けることになります。

さて、このように、人間の完全情報への憧れという抗しがたい性質に基づいたこの問題を、どのように考えればいいのでしょうか。

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二つの世界観

まずは自分の世界観を確認するところから始めましょう。

世界観とは、あなたが世界をどのようなものとして認識しているかのことをいいます。

コーチングの大家、ルー・タイスは、世界観には大きく二つのあり方が存在すると述べました。

一つは、ニュートン的世界観です。

そしてもう一つは、ホワイトヘッド的世界観です。

ニュートン的世界観とは、神が作った完全な世界(a perfect world)があり、人間はそれを壊そうする存在であるという世界観です。

そこでは、そもそも物事は固定的であり、変化することは一時的なものでありその本性ではないと考えられます。

一方で、ホワイトヘッド世界観とは、この世の中は変化することこそが常態であり、流動的なものであるという世界観(a dynamic world)です。

物事は流動的であり、世界は神と人間が共に想像していくものとして認識されます。

ルー・タイスは後者の世界観を採用しましょうと言っています。

だからこそ私たちは変化・成長する無限の可能性があると考えられるようになるからです。

完全な成功法則などない

さて、この世界が流動的なものであるということは、完全なものはないということも同時に言えるはずです

さきほども書きましたが、このことは、科学的にも証明されています。

完全なものがない以上、完全な成功法則もないということになります。

このような知的な理解を通し、成功法則に完全を求めること自体がナンセンスであるという態度を自分の中に作ることで、いたずらに成功法則に依存してしまうこと自体を避けることができるでしょう

また、完全な成功法則がないと腑に落ちれば、かえって成功法則の上手な使い方が見えてきます。

アティチュードを作り込む

誰がどう考えても間違っているような成功法則であれば論外ですが、多くの成功法則はそれなりに頷けることを述べているものです。

だったら、それを完全否定してしまうのも考えものでしょう。

とりあえず、まずは試しに成功法則をもとに行動してみればいいでしょう。

そしてその結果、想定通りの展開となればよしとします。

しかし、想定外の展開がとなることもあるでしょう。

ここが重要です。

そもそも完全な成功法則がないのだから、想定外になること自体驚くことでもなんでもありません。

普通に「ある」ことなのです。

その上で、「この成功法則をこの場面で私が用いると、このような結果がでてくるという情報が得られてよかった」という解釈を与えていきます。

コーチングの用語で「特定の出来事に対する感情的な反応の傾向」のことをアティチュード(attitude)と呼びます。

成功法則を用いて想定外の展開が現れたとしても、「新しい情報が得られて喜ばしいことだ」とか、「なるほど、この成功法則はこういう場合は当てはまらないのだな、知れてよかった」などというように、アティチュードを上手に作り込んでいけば問題ありません。

それどころか、想定外の事態を上手に切り抜けられるマインドが育つ、絶好の機会になるのです。

エフィカシーを上げる

とはいうものの、成功法則を用いても期待通りの展開とならなかった場合は、たじろいでネガティブな情動が湧いてくることは無理もないでしょう。

エフィカシー(self-efficacy)という概念があります。

コーチングの中で使われる際には「ゴール(goal)達成のための自己の能力の自己評価」のことを指します。

この概念は、もともとアルバート・バンデューラという心理学者によって形式化され、それをルー・タイスが自身のコーチングの理論の中に組み込みました。

エフィカシーが高ければ、失敗をしても立ち直るのが早いと言われます。

想定外であるとは、すなわち失敗をしたということです。

しかし、ゴールを設定し、そのゴールを達成する能力が自分にはあるのだという確信、すなわちエフィカシーが高ければどうでしょうか

仮に成功法則が思うような展開を生まなかったとしても、一時的に湧くネガティブな情動をはねのけ、先ほど述べたようなアティチュードを無理なく選択することができるでしょう

つまり、上手に成功法則を利用していくためには、エフィカシーを上げていけばいいということもわかります。

望ましいアティチュードを選択し、エフィカシーを上げれば、成功法則に振り回されるのではなく、成功法則を自分のケースにうまくあてはめながら、前向きに活用することができるはずです。

 

まとめ

成功法則に絶対を求め、振り回されてしまう人に向けて書かれた記事でした。

そもそも世界は流動的なものであり、絶対的なものはないと深く認識をした上で、自分に合わせて上手に活用すればいいということでした。

そのために、望ましいアティチュードを選択し、エフィカシーを上げればよいということでした。

参考にしていただけると幸いです。

「自分探し」「私らしさ」「自己肯定」「ありのままの自分」これらの追求の果てにある落とし穴とは


苫米地式認定コーチ、TICEコーチの高嶋芳幸です。

 

「自分探し」

言葉というものは、持たされるイメージや、場合によっては意味までもが時代によって変わってしまうものでしょう。

この「自分探し」という言葉も例外ではありません。

ある時代では、ポジティブな捉え方をされていたこともあるようですが、現代ではどちらかといえば

「いつまでたっても腰の据わらない夢見がちな人が、どこにいるかもわからない理想の自分を追い求め続け、実際には何ひとつ事態が好転していないこと」

といった少々ネガティヴなイメージが持たれているようです。

実際問題として、いつまで経っても自分探しから抜け出すことができず焦ってしまうという人も多いようです。

とは言うものの、「現実や今の自分を直視して、地に足つけた生き方をしなさい」という提言に対してもなんだか賛同できず、ますます迷ってしまいます。

そんな自分が嫌で、いろいろ真面目に勉強し、状況を変えようとしてみるのだが、気が付いたら不満だらけの日常に戻っている、そんなことを繰り返してしまうという相談をよく受けます。

そこでこの記事では、

「自分」とはいったい何かについて考察した上で、抜け出せない「自分探し」の構造を明らかにし、正しく自分と向かい合っていく方法についてお伝えしたいと思います。

 

自分とは何か

自分とはいったい何か、私とはいったい何なのかという問いは、長くにわたって議論されてきた哲学的テーマの一つです。

歴史上その問いに対して様々な解が提出されました。

現代的な考え方としてここで採用するものは、

 

自分とは、自分に関係する重要な情報の集まりである

 

というものです。

たとえば、今この記事を読まれているあなたが「自分自身を説明してください」と言われると、どう答えるでしょうか。

職業、趣味、家族、収入、、、などなど、自分にとって重要な情報を列挙することで、説明を試みようとするのではないでしょうか。

いや、自分とは◯◯という名前であり、それが自分そのものなのだという方がいらっしゃるかもしれません。

しかし、少し待ってください。

その名前は、単なるラベルであってあなた自身ではありません。

名前ですら、自分に関係する重要な情報のひとつなのです。

このように、自分のことを説明しようとすると、どうしても自分に関係する重要な情報を列挙するしかないのです。

では、そういった自分に関係する重要な情報の中心には何が存在するのでしょうか。

何も存在しません。

そこには自分という存在はないのです。

しかし、実体としての自分はなくても、機能(働き)としての自分のようなものはあります。

どのような働きかといえば、この宇宙の情報すべてを、自分にとって重要な情報とそうでない情報に並べ替えていく働きです。

この働きの結果、自分にとって重要な情報が定まり、それらがなんとなく寄り集まったひとつの状態が自分という存在なのです。

この説明を聞いて、わたしはそんな難しそうなことしていませんと思う方もいるかもしれません。

しかし、どんな人も必ずこういった成り立ち方をしているはずなのです。

現に、あなたを説明してくださいといったときに、まっさきに氏名や職業をあげるではありませんか。

フランスに住んでいるピエールさんの同じ身体的構造を持つ一人の人間ですとは言わないでしょう。

それは、フランスに住んでいるピエールさんの情報よりも、氏名が職業が自分にとって重要だとどこかで判断しているからでしょう。

このように、自分とは、重要な情報とそうでない情報を並べ替える働きの結果であると考えることができます。

 

自分はあるとも言えるし、ないとも言える

さて、このようなある情報処理主体にとって重要なものとそうでないものに分ける働きを「自我」と呼びましょう。

自我の持つ働きによって選別された重要な情報がなんとなく寄り集まった状態こそが自分であるとわかりました。

ところで、この「なんとなく」というのがポイントです。

自分のことを説明してくださいと言われたとき、氏名や職業を答えることには、何の違和感もありません。

出身大学や、好きな料理、付き合っている人のことなども、まあ問題ないでしょう。

しかし、自分を説明してくださいと言ったとき、以前付き合っている人のことを説明されたどうでしょうか。

すこし怪しくなってきます。

小学校に嫌いだった給食のメニューなどはどうでしょうか。

あるいは、その給食を作った人のことはどうでしょうか。

ここまでくると、自分のことを説明する内容としてはふさわしくない気がしてきます。

しかし、重要なものと間違いなく関連する情報ではあります。

こうしてわかることは、突き詰めていけば世界中の情報はあなたと関係を結ぶことができるという事実です。

このように情報が互いに関連しあってこの宇宙を形成している様子、あるいは、そのような関係によって存在が生まれる有り様のことを釈迦は「縁起」と呼びました。

この宇宙が情報の網の目によって形成される「縁起」であるとしたら、どこまでが自分であって、どこまでが自分でないかは究極的にはわかりません。

だからこそ「なんとなく」という表現を使うしかないのです。

重要だと思われる情報がアナログな連なりを形成し、なんとなく境界線が生まれて成り立っている状態が自分であるということです。

また、状態である以上それは固定的なものではありません

実際問題考えてみればわかりますが、自分のことを説明してくださいと言われたときの答えは、昨日と今日では違ったものになるでしょう。

もっと細かく言えば、それこそ一瞬ごとに変わっているはずです。

細胞レベルで言えば、一瞬ごとに生まれ変わっていっているからです。

直接的に感知できるかどうかは別として、身体が無意識に重要だと判断しているものは常に変わっているといえるでしょう。

このように、自分という状態は実にダイナミックであり、変動していくものなのです。

だとすると、自分に対する多くの悩みはナンセンスであるとわかります。

 

自分は奥手だから

自分は暗いから

自分は貧乏だから

自分は頭が悪いから

自分は彼女に振られたから

 

だからダメだと続くこういった悩みが悪いことだとは思いませんが、実際に悩んでいる人は多いのも事実でしょう。

そしてその悩みの根本は、こういった自分は変えることが困難である、あるいは変えることができないと思い込んでいる点にあります。

しかしながら、自分とはそもそも動的であり、ダイナミックに変動していくものなのだから、放っておいても一瞬後には違う人になっています。

それでも悩むということは、わざわざその必要もないのに一瞬後も自ら悩みをコピーし、固定した状態を作り出しているだけなのです。

まさに自分で悩みを生み出し続けているナンセンスな状態です。

本質的には自分で作り出している悩みであっても、それを自覚することなく、意識の上では自分を変えたいと思うものだから、今とは違う「自分探し」にいそしむのでしょう。

そして

「ありのままの自分を受け入れる」

といった聞こえのいい言葉に騙されて、なんとなく満足したような気持ちになってしまうわけです。

先ほどの説明からもわかるように、ありのままの自分なんて存在しません。

すべての情報は一瞬ごとに生まれ変わり、当然のことながら自分という状態も時々刻々と移り変わる状態のことだからです。

だからこそ、わざわざ自分にとって本当は望ましくない自分を「ありのままの自分」などといった綺麗な言葉で受け入れようとせず、好きなように変えればいいのです。

奥手な自分がいやなら、積極的な自分になればいいし、暗い自分がいやなら明るい自分になればいいのです。

その大前提は、自分とはダイナミックに変わる動的な情報の状態であり、いくらでも変えられるということを心から受け入れることです。

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自分らしさはどこからやってきたか

とはいえ、現段階における支配的な自分があり、現実的にそれがなかなか変わりにくいのは事実です

この場合の支配的な自分とは、何を重要だと判断するかの自我の働きが、ある程度固定されてしまっているということです。

よく考えてみれば当たり前の話です。

たとえば、昨日まで「何よりも金が大事だ!」という重要性を持っていた人が、いきなり「金なんかよりも大切なものがたくさんある」と言い出したり、その逆のようなことが続出すれば、社会は大混乱に陥るでしょう。

ということで、自分とは、突き詰めて考えていけばダイナミックな情報状態なのですが、実際問題としてある程度維持される、というのが正確な表現のようです。

ところで、このときの自我は、どのようにして出来上がったのでしょうか。

コーチングでは、過去に入ってきた外部情報に反応することを繰り返した結果生じたパターンの集積として出来上がる、と考えます。

少し難しい表現ですので説明しましょう。

私たちにはマインドがあります。

マインドとは「脳と心の働き」のことです。

五感を通じて情報を刺激として受け取った私たちのマインドは、その中でなんらかの計算が行い、判断や行動といったかたちで反応をします。

たとえば、母親が怖い顔をして殴ってきたという経験があったとします。

そうすると子供であるあなたは、五感を通じて母親が殴るという情報をマインドに取り込み、恐怖や不安を感じるという反応をするとともに、涙を流す、震える、叫ぶなどといった肉体的反応もします。

このときの反応のありかたを決定しているのが、マインドの働きなのです。

ところで、さきほどの例が繰り返されると、どのようなことが起こるのでしょうか。

なんども母親に殴られ、恐怖を感じるといったパターンを繰り替えいると、どんどんとそういったマインドの働きが強化されていきます。

やがてはそのパターンは抽象化され、母親の顔を見ただけで恐怖を感じたり、あるいは目の前でまったくの他人である子供が親に叱られている風景を見るだけで、わなわなと体が震えてきたりするようになります。

そういう人にとっては、母親を怒らせないことや、他人がもめているところから遠ざかることが極めて高い重要性を持つようになるわけです。

この例はいささか極端なものですが、このように私たちの自我は、過去の情動的な記憶をもとに形作られていきます。

つまり、私たちが通常自分と呼んでいるものは、過去、外部から偶然入ってきた強烈な記憶によって出来たパターンの無限とも思える集積の結果であるということです。

 

さて、このような人が自分らしさを求めて、自分探しを徹底していくとどういうことになるのでしょうか。

現在の自分、つまり現在の自分にとって重要なものを真剣に尊重すればするほど、過去の偶然によって出来上がった記憶の檻に閉じ込められることになります。

過去に偶然接触した情報は、決してあなたが望んで取り込んだものではないはずです。

それどころか、あなたをなんらかの形で縛ろうとする内容だったケースが多いはずです。

常識という名を借りて、あれをやってはいけない、これをやったら罰を受けるという経験をたくさん浴び、現在の重要性が出来上がりました。

それもこれも、親、教師、大人、社会、権力といった外部が、それぞれの都合に合うようにあなたを縛ろうとしたがゆえなのです。

だから、たいへん皮肉なことに、自分らしさを追求し、「ありのままの自分」などを肯定すればするほど、過去に自分を縛るべく外部からやってきた(つまり他人の)重要なものの奴隷になっていくという事態が生まれてしまうのです。

 

自分探しの人は何に悩んでいるのか、何が辛いのか

そういう人は幸せなのでしょうか。

幸せだという人もいるかもしれません。

しかし、その幸せですら、その状態が幸せだという外部情報によって作られたものである可能性が高いでしょう。

自分が死の淵に瀕したとき、本当に心からこの人生でよかったと確信を持って思えるような生き方をしている人はとても少ないのではないでしょうか。

また、自分探しを延々やっている人はまだましなのかもしれません。

何かがこのままではよくないということはわかっているからです。

過去の外部情報の奴隷状態である自分のことが、無意識ではわかっているために、いつまでたっても満足感が得られないという状況なのでしょう。

ただし、そのような過去の外部情報によって作られた重要性に囚われたままで、いくら自分を解放するようなことをやったとしても、やはりいつまでも満足は得られません

その結果どのようなことが起こるかといえば、いわゆるセミナー難民などが生まれます。

なんらかのセミナー等で、

「これで本当の自分に出会えた!」

という一時的なカタルシス、高揚感を得たとしても、結局は過去の重要性の奴隷を脱していないため、時間とともにやっぱり何かが違うと感じ、次の方法を探しにいくわけです。

これでは、いつまでたってもその人は本当の満足を得ることはできないでしょう。

大切なのは、現在出来上がっている過去の外部情報をベースとした自分にしがみつくことではなく、未来の望ましい自分を前提に、今の自分をぶち壊すプロセスの中に入っていくことです。

言い換えれば、マインドの働きそのものが変わるような体験に入るということです。

その中で過去の重要性から自由になり、本当にこれだと思うものに出会っていくことが必要なのです。

 

ありのままの自分を追求する人のリスク

ところで、過去の外部情報ををもとにして出来上がった自我に基づく「ありのままの自分」を追求ばかりしている人は、別の意味でもリスクがあります。

それは、人にコントロールされ、いいようにされてしまうということです。

先ほども述べたように、「ありのままの自分」を追求する人が本来やらなくてはならないのは、未来の望ましい自分を前提として、今の自分を否定し、徹底的に自己決定に基づいた新しい自分らしさを作っていくことです。

それができていないということは、本当の意味での自分がないままであるということです。

その一方で何かおかしい、どうにかしたいと思っているものだから、目新しく思える自分のモデルに出会うと、途端にそれに心酔してしまいます

ちょうど真空状態のところへ、空気が急に入ってくるようなものです。

「これこそがあなたにとっての本当の自分なのです」

という魅惑的なメッセージとともに、ようやく本当の自分に出会えたと思い込みます。

だいたいそういう場合は、その「メッセージを発した人にとって都合の良い本当のあなたらしさ」というものだと相場が決まっています。

結局その人にいいように使われてしまうのです。

これでは、単なる過去の外部情報によって作られた「ありのままの自分」を追求してる日々の方がまだましだったのかもしれません。

主観的にはやりがいのある日々で幸せに感じているのかもしれませんが、この文章を読んでいるあなたがそうはなりたいと思わないはずです。

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私たちはどのように自分らしさと向き合うべきか

では、具体的にどうしていけばいいのでしょうか。

コーチングでは、ここまでに述べたような状況に対する攻略法が用意されています。

それがゴール設定です。

ゴール設定には、いくつかの守るべきルールがあります。

その代表的なものが、ゴールは現状の外側に自分で設定するというものです。

この場合の現状の外側とは、いったいどういうことでしょうか。

これまでの中で確認した問題から逆算してみればその意味が見えてきます。

すなわち、過去の自分らしさの枠組みの中ではなく、その外側に新しい自分らしさを設定するということです。

言い換えれば、現在の自我の重要性からは自然には出てこないような、新しい重要なものを選択し、ゴールとするということです。

これは「本当の自分」や「私らしさ」にこだわり続けていた人からすれば、徹底的な自己否定でしょう。

しかしその自己否定は、決して自己評価を下げるようなものではありません。

むしろ自己評価は同時に上げる必要があります

なぜなら、それまでの自分であれば想像もしなかったようなスケールの大きなゴールであったり、それまでの自分であれば縁もゆかりもないだろうと決めつけていたようなゴールを設定し、実際に目指す必要があるからです。

そのようなプロセスは、根拠はないけど自分にはできるんだという種類の自己評価を上げていくことが大切なのです。

とにかく、そのような

スケールの大きなゴール

自分には縁もゆかりもないと決めていたゴール

という過去の重要性から解き放たれたものを自分で設定する必要があります。

そして、それに向かっていくことで、過去の重要性から出来上がった自分らしさから解放され、新しい自分らしさが出来上がっていくことが期待されるのです。

 

新しい自分らしさすらも超えていく

さて、これでめでたく新しい自分らしさを手に入れられました、となるのでしょうか。

残念ながら、そうはなりません。

まずその説明のために、対象を認識するには、知識が必要であるという事実を押さえてください。

たとえば、今私はmacのノートパソコンでこの文章を書いていますが、このmacのノートパソコンも、そもそもノートパソコンがなんであるかという知識がなければ認識することができません。

今となってはそんな人もいないでしょうが、40年くらい前の人が今の私を見て、一体何を用いて、何をやっているのかまったく想像できなかったはずです。

それは、端的にパソコンという知識がなかったからです。

この事実をさきほど合意した、ゴール設定にあてはめてみましょう。

過去の偶然出会った情報が作り上げた自我の重要性を否定し、新しい自分らしさを自分で作り上げるべく、あなたは現状の外側のゴールを設定しました。

では、そのときのあなたが認識した、「現状、外側、ゴール」という対象は何によって得られたのでしょうか

なんと、あなたが過去に獲得した知識です

そしてその知識は、過去、偶然出会った情報によって構成されています。

これでは堂々巡りです。

せっかく過去の重要性の外側に新しい重要性を作ろうとしても、その判断基準そのものが過去の重要性の影響を免れえないということです。

それでは、私たちは永遠に過去の呪縛から逃れられないのでしょうか。

そんなことはありません。

過去の自分らしさを否定し、新しい自分らしさを作るという決意は、過去の自分らしさの枠組みの外側からなされたものであるはずです

過去の自分らしさを対象化し、外側から眺めるという視点の獲得なしにはそのような発想は生まれ得ないからです。

もちろん、その視点を獲得したからといっても、あいかわらず判断の拠り所のほとんどは過去の情報です。

しかしその中にあって、過去の枠組みから外に出るという強い意志こそが、過去の枠組みの外側にある新しい知識を少しだけあなたに見せるのです。

その知識は、当初は微かなものかもしれません。

しかしながら、その知識をもとにゴール設定を再度行います

そのゴールは、当初のゴール設定よりはいくぶん過去の重要性から解放されたものになっています。

このようなサイクルに参入し、繰り返し続けることで、あなたの中の重要性は、過去の外部情報が作り上げたものから、だんだんとあなたが自分で主体的に作り上げたものへと成長していきます

コーチングとはこのようなプロセスに参入するためにテクニックの束と理解することもできるでしょう。

そもそもどこにもないあなたは、他ならぬあなた自身が創出していくべきなのです。

 

コーチングの創始者、ルー・タイスは次のように言いました。

All meaningful and lasting changes and growth starts on the inside first, and work its way out.

すべての意味のある永続的な変化と成長は、内側に始まり、外側へと広がる

 

本来どこにもいない自分を過去や外側に探すことはもうやめて、正しい方法で自分の内側を見つめ、自分で自分らしさを作るという発想を持ちましょう。

 

まとめ

過去の重要性に基づく自分らしさをいくら探しても、いくら受け入れても意味がないどころか、ますます過去に縛られる可能性すらあるということでした。

それよりも、正しく内面を見つめながら、ゴール設定と更新を繰り返す中で、新しい自分らしさを自分で作り上げていくプロセスに入ることが重要であるということでした。

参考になりましたら幸いです。  

 

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恐怖や不安をあおりながら「人助けしてる」と言い張る人たちへの傾向と対策


苫米地式認定コーチ、TICEコーチの高嶋芳幸です。

いきなりですが、


「この文章を一度読み始めたら必ず最後まで読んでください。

さもなくば、あなたの人生にとって良くないことが起こるでしょう」

 

と、この記事が始まったとしたらいかがでしょうか。

そしてこう続きます。

 

「私のこの記事を最後まで読めば、良くないことを回避することができます」

 

ある人は、

「なんだ馬鹿馬鹿しい」

と記事を読むのをやめてしまうかもしれません。

 

しかし、ある人は、

「えっ、まさか」

と思いながらも、うっすらと恐怖、不安を感じてしまい、先が気になり、読み進めてしまうでしょう。

このように恐怖や不安には人と引き摺り込む力があるのです。

 

残念なことに、本来なら人を救うべき役割の人間が、相手の恐怖や不安といった情動につけ込み、巧みにコントロールして相手をいいなりにさせるという事態が世の中には存在します

そこでこの記事では、その実態、メカニズムを明らかにし、そういった脅しでのコントロールからどのように身を守ればいいのかについて書きたいと思います。

 

脅して人を助けようとする人たち

世の中にはたくさんの職業があります。

その中でも、人間同士が向かい合い、一対一で心身の深い部分から関わっていく職業といえばなんでしょうか。

教師、カウンセラー、セラピスト、占い師、医者、ヒーラー、気功師、整体師などなど、上げていけばきりがありません。

あるいは、牧師、神父、僧侶といった宗教家もありますし、広い意味では親もそのような職業の一つかもしれません。

もちろん、私の職業であるコーチもそこには含まれてくるはずです。

さて、私自身コーチとして、そのように人と深く関わるような活動をしていると、表にはあまり出ない色々な話を耳にする機会が多くあります。

その内容は、こういった職業の中で、恐怖や不安で脅し続けるような関わり方が横行しているというものです。

改めて上記の職業を見てみればわかるとおり、それらが共通して担う役割といえば、相手をハッピーにすることでしょう。

それぞれの持つ知識と技術を活用し、相手の何らかの悩みを解決してあげたり、体の不調を整えてあげたり、より高いパフォーマンスが発揮できるようにしてあげたりします。

つまるところこれは、相手をハッピーにすることに他ならないわけです。

ところが、そういった役割を持つような上記の職業の中で、恐怖や不安を用いて相手を脅し、意のままにコントロールしようという悲しい関わり方をしている人がいるという話を聞くことがあります。

これは大変な問題であるといえるでしょう。

実際、相手は今よりハッピーになりたいからそういう人達と関わることを決めたのに、かえって特定の恐怖や不安に縛られ、相手のいいなりになってしまい、心身の自由を損なってしまったというケースが多くあるのです。

 

臨場感とは何か

恐怖や不安によって操られてしまうとき、私たちのマインド(脳と心)にはどのようなことが生じているのでしょうか。

少し理論的に考えてみましょう。

まずは臨場感という概念について説明します。

臨場感とは、まるでその場に身を置いているかのようなリアルな感じのことをそう呼びます。

「身を置いているかのような」わけですから、臨場感が高いとは、単なる形だけの空想ではなく、強い情動を伴う体感を全身で味わっている状態です

臨場感を理解するための一番わかりやすい例は、目の前に生じている物理的な世界です。

この文章を書いているのは真夏なので、外に出ればセミの鳴き声が聞こえ、太陽の光が皮膚をチリチリと刺し、どこまでも抜けるような青空が広がっています。

その際には、懐かしい気分になったり、イライラしたり、清々しい気持ちになったりと、さまざまな情動が湧き上がります。

まさに臨場感たっぷりに「真夏」を感じているわけです。

まさにリアルな「真夏」の中に身を置いていることを実感できるでしょう。

臨場感という概念が理解いただけたでしょうか。

 

臨場感の高い仮想世界が現実となる

ところで、脳の進化の結果、人間は物理的に目の前に広がっている世界のみならず、情報的な仮想世界に対しても臨場感を感じることができるようになりました(実は物理的に目の前に広がっている世界ですら仮想世界の一種であるということがわかっているのですが、ここではその議論には立ち入りません)。

最近は「ポケモンGO」が流行していますが、こういったゲームなどは仮想世界の典型でしょう。

そのような仮想世界に対しても、人間は「リアルな感じ」を維持することができるのです。

また、仮想世界は事実上無限に想定することができます

ポケモンGOの世界も想定できますし、自分が大金持ちになっている世界もそうですし、あるいは、自分が犯罪者になっている世界だって想定できます。

そのいずれに対しても私たちは臨場感を感じることができるわけです。

 

ところが、私たちがそのどれもに対して臨場感を同時に持つかといえば、そうではありません

なぜなら、臨場感を感じている仮想世界の整合的な全体は一つしか持ち得ないからであり、矛盾するような臨場感の仮想世界を同時に選ぶことは不可能からです。

例えば、大金持ちな自分と貧乏な自分の仮想世界に対する臨場感を同時に維持することはなかなか難しい、ということです。

  さて、このときの整合的な全体のことをゲシュタルトといいます。

人間は可能性としての無限の仮想世界から、ある秩序をもったまとまりとしてのゲシュタルトをひとつ採用しています。

その採用基準はいったいなんなのでしょうか。

それは、さきほど説明した臨場感の強度です。

複数の臨場感が強い仮想世界が選ばれ、それらが矛盾せず、全体として秩序をもったゲシュタルトとなると、実際にその人はそういう世界を生きることになります

まさにそれが現実となるということです。

現に、「ポケモンGO」をスマートフォンで歩きながらプレイすることで、あわや大事故というケースが多発していると聞きます。

これなどは、目の前に車がビュンビュン走っている世界よりも、ポケモンGOの仮想世界の方が臨場感高く、その人のゲシュタルトの中では車は無いも同様ということでしょう。

本来なら、目の前を高速で車が通りすぎれば体がビクッと反応するはずなのですが、それよりも「ポケモンのレアキャラを見つけて嬉しい」の臨場感のほうが強いわけです。

その際のゲシュタルトには、車が目の前を通り過ぎるという事実は含まれず、ないも同然になってしまいます(ただし、無意識の深い部分ではその存在を感じている可能性は高いですが)。

このように、強く臨場感を感じた仮想世界が、その人にとっての現実世界になってしまうわけです。

ただし、もしその人が車にはねられたとしたら、その瞬間にポケモンGOの臨場感世界は雲散霧消し、車にはねられた臨場感世界が現実のものとして採用されるでしょう。

当たり前ですが、車にはねられた際の痛みに勝るほどの臨場感は、ポケモンGOにはないからです。

とにかく、ここで大切なのは、臨場感の高い仮想世界が採用され、ゲシュタルトができると、それが私たちの現実として機能するという事実です。

 

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人をコントロールするにはその人の臨場感を書き換える

さて、この臨場感の考え方が、この記事のテーマとどう関わってくるのでしょうか。

 

私たちはそれぞれが何かしらの仮想世界に臨場感を感じています。

そして、私たちをコントロールしようとする悪い人は、この私たちの臨場感を書き換え、自分に従うような仮想世界へと臨場感を強めるような働きかけをしてきます

相手に従うのが正しいという仮想世界に対して臨場感を持ってしまうと、それがそのまま私たちの現実世界となってしまいます。

悪い人のために何かを捧げることが正義であり、自ら望んでそのような行動をとるようになります。

そういった方向へと私たちを誘導していくために、恐怖や不安の情動を使うことが実に有効なのです。

だからこそ卑劣な人は、恐怖や不安の情動を使い、私たちをコントロールしようとします。

なぜそれが問題かといえば、相手の心の傷になる可能性があるからです

恐怖や不安のような強い情動を用いると、相手が長期間にわたって苦痛を感じるような影響を与えてしまうことになります。

悪いことに、その苦痛を取り除こうと、ますます支配者に依存するようになり、結果として利用されてしまうのです。

そもそも、私たちのハッピーは、最後には私たち自身でしか決めることはできません。

にもかかわらず、誰かにコントロールされ、その人に依存してしまったとしたら、いかに相手が人を導く専門職の人であるといっても、私たちのハッピーは保障されません。

このように、恐怖や不安で人をコントロールすることは大変なリスクがあるのです。

ところで、実はこのあたりの解説は、具体的な方法論や因果関係を細かく書くことをあえて避けています。

この文章を読まれている方の中には、恐怖や不安で脅して相手を意のままに操ってやろうという卑劣な人間はいないと信じていますが、万が一の場合を考え、真似ができないように書いています。

とにかくここでは、人間を操るのに恐怖や不安はものすごく使いやすく、それはリスクのあることだということがわかっていただければ問題ありません。

そのような手法はいたるところに見られます。

実際にご自身の周りにもそういう人はたくさんいませんか。

上司や、友人や、メディア、親、親族、教師などはもちろんのことながら、先に挙げた職業の中にも思い当たる人物がいるかもしれません。

まずはそういった手法が存在し、安易にその手法を使って自分を操ろうとしてくる人間がいるのだとしっかりと自覚してください

 

恐怖や不安の使われ方

恐怖や不安で人をコントロールしようとする人たちには、どのような特徴があるのか列挙してみましょう。

周りにいる人たちにこんな人はいないか、今一度チェックしてみてください。

まずは、なんと言っても強い言葉を多用するというやり方があげられます。

バカとか死ねといったストレートなきつい言葉を用いることから、厳しい口調で「本当にそれで正しいと思っているんですか」などと詰める、といった間接的なものまで様々です。

「このままではひどい目にあいますよ」、「とんでもなく苦しい目にあいますよ」といった未来の不確定な状況をマイナスな方向へと煽り、不安や恐怖を引き出そうというやり方を取ることもあります。

また、そういった強い言葉で直接相手を非難するようなことを言い続けると心が離れていくため、共通の敵を作り出し、そちらを叩くというやり方もよくみられます。

そして、「そういう人たちに私たちはひどい目にあっているのだ」と連帯意識を強めます。

共通の敵を設定して叩くことで、こちらは自分もそのように責められるかもという不安も感じますし、実際には共通の敵が自分たちにひどいことをしようとしているということで、自然と連帯感が高まるという実に巧妙なやり方です。

こういう人はみなさんのまわりにもいませんか。

あえてその場にいない人を過剰に叩くことによって、目の前の人との関係性を強めようとする人です。

それが正当な批判であれば、問題ありませんが、もしかしたらその人は、私たちをコントロールするためにそういうスタンスをとっているのかもしれません。

反論しにくい正しいことを過剰に言うというやり方もよく見られます。

たとえば、遅刻をしてしまったとか、言葉を間違って使ってしまったとか、一般的に正しいとは言い難いことを過剰に責め立てるということです。

直接コントロールしたい相手に向かって言うこともありますが、やはりここでも、その場にいない誰かをつるしあげることで目の前の人の情動を煽ります。

強気に正しそうなことを言われると、こちらはなんだかそれが普遍的に正しいことのように思ってしまったり、やはりここでも自分が責められているかのように感じてしまうのです。

確かめようのないことを担保に、何かを過剰に主張することも同様です。

確かめようがないのだから、当然反論しにくいのです。

「あんた地獄に落ちるわよ」などはその典型でしょう。

このように、恐怖や不安などの情動を用いて相手をコントロールする人は、様々なやり方で巧みにこちらの情動を煽ってきます

その情動に付け込まれると、相手にコントロールされやすい状態になってしまうのです。

 

脅して人助けをすることに正当性はあるのか

ところで、冒頭にあげたような、人を導く職業について少し考えてみましょう。

そういった職業を担っている人のもとにやってくる人というのは、何かしらの悩みをかかえ、それを好転させたいという人であるはずです。

この状態を、さきほどの臨場感というキーワードで表現するのなら、自分の悩んでいるという仮想世界の臨場感を下げ、悩みのないハッピーな仮想世界へ臨場感を強く感じられるようになりたいということです。

人を導く職業の人はそのために、それぞれの専門的な知識や技術を総動員し、相手をハッピーな仮想世界へ臨場感を感じられるように手助けしてあげます。

たとえば、私の仕事であるコーチングであれば、「ゴールがしっかりと設定され、エフィカシー(ゴール達成のための自己の能力の自己評価)がどんどんと高まり、楽しく試行錯誤を繰り返しながらゴールへと向かっている」という仮想世界へ臨場感を感じてもらうように働きかけていくわけです。

また、医者であれば、治療行為を通して実際に患者の病気を治すとともに、自分は病気であるという仮想世界への臨場感を下げ、自分は健康であるという仮想世界への臨場感を高めてあげるということをやっているはずです。

ここで難しいのは、人には現状を維持しようとする強い力が働くということです。

一度臨場感が高まり、選択された仮想世界からはなかなか抜け出せないというわけです。

コーチングの例であれば、コーチが一生懸命関わっても、クライアントが「自分にはゴールが見つけられません」、「自分にはゴール達成なんてできません」という仮想世界臨場感が高く、そこからなかなか抜け出せないということです。

もっとも、しっかりとコーチングが機能されればそんなことにはなりえませんが。

とにかく、人は一度強い臨場感を感じた仮想世界が出来上がると、たとえそれが苦しく、頭では望んでいないものであっても、それを維持してしまうという厄介な性質があるわけです。

そういった場合、その臨場感の強い仮想世界をいったん崩していかなければなりません

恐怖や不安を安易に用いる人の中には、この点を強調することがあります。

つまり、相手が現状の仮想世界に強く臨場感を感じているから、それを一度崩すために恐怖や不安を使うのだと主張するということです。

たしかに、恐怖や不安の情動を利用すれば相手の今感じている臨場感を揺らがすのは容易です。

しかし、さきほども書いたとおり、それには相手の心に傷を負わせるというリスクがありますし、そもそもそれ以外の安全な方法で誘導すればいいだけの話です

相手に変わる意思がないにもかかわらず、どうしても相手に強烈に働きかけて変化させなければならないといった極めて特殊な状況なら、そういうやり方も部分的には許されるかもしれません。

しかし、相手が変わりたいと思ってやってきているわけですから、わざわざ恐怖や不安を用いて相手の臨場感を崩そうとする必要などないはずです。

きちんと正当な技術を使い、相手をハッピーな仮想世界の臨場感が高まるように誘導すればいいはずです

それでは何のために恐怖や不安を用いて働きかけをするのかというと、自分の技術不足のためにそんな卑劣な手段を取るしなかないか、恐怖や不安を過剰に使うことで長期的に相手をコントロールし、顧客として囲うことくらいしか考えられないのではないでしょうか。

 

もし恐怖や不安をあえて使う正当な理由があるのだとしたら、教えて欲しいくらいです。

人を導く仕事についていながら、安易にそういった方法に手を出してしまっているとしたら、それは本当に相手のためなのかよく自己観察するべきでしょう

 

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恐怖や不安でコントロールする人への対策

さて、それでは私たちは、恐怖や不安でコントロールしようとする人に対してどのように気をつけておくべきなのでしょうか。

以下、4つほど対策をあげておきましょう。

 

1:恐怖や不安をあおる人の言うことは無条件で聞かない

まずは何といっても、恐怖や不安を用いて何かを主張する人の言うことは、無条件で聞かないということです。

どんなに立場のある人、権威のある人であっても、言うことを聞かないくらいの気持ちでいいでしょう。

何か主張があるのならば、きちんと論理的に説明をすればいいだけの話です。

もちろん、少しでも読者の興味を引くためのいわゆる「煽り」をまったくなくせというのも極端な話でしょう。

また、単にリスクを伝えるために、そのつもりはなくても恐怖や不安を喚起するような物言いが必要な場合だってあります。

しかし、ことあるごとに恐怖や不安で脅し、それが一定期間以上にわたって続くようであれば、その人のいうことは無条件で聞かないくらいの態度が安全でしょう

そうすれば、知らず知らずのうちにコントロールされていた、ということもなくなります。

 

2:一貫性をチェックする

次に、一貫性をチェックするということがあげられます。

恐怖や不安で脅す人というのは、実は大したことを言っていない場合が多いです。

それもそのはずで、きちんと物事を考え、熟考できる人間であれば、恐怖や不安をいたずらにあおるという方法を安直に取るべきではないとわかるからです。

それゆえ、恐怖や不安で脅す人の行動を見ていると、一貫性に欠ける部分が出てきます

そのような視点を維持し、発言と行動には一貫線があるのかをチェックし、この人は本当に信用に足るのかを判断しましょう。

また、恐怖や不安で脅す人は、そうする一方でこちらに対して人が変わったかのように異常に優しく接するという面がよく見られます

いわゆるアメとムチです。

口汚く誰かを罵ったかと思えば、急にこちらには猫なで声で優しげなセリフを投げかけたりします。

そのように両極の情動で揺さぶることで、こちらを混乱させ、ますますコントロールを容易なものにしようとするのです。

その際にもやはり、内側に対する態度と外側に対する態度に一貫したものがあるのかをと冷静に判断する視点を維持することが重要です。

 

3:論理を判断の拠り所にする

恐怖や不安で脅す人は、強い情動が湧くことにつけ込んでこちらをコントロールしてきます。

だったら、究極の対策は、こちらの情動を停止してしまうことだとわかります。

そんなことできるのだろうか、と思われるかもしれません。

しかしそれはトレーニング次第で上手になっていきます。

実は、この記事を読み進めていただくこと自体がそのトレーニングになっていますので、ぜひ何度も繰り返し読んでみてください。

論理的、知的に物事を理解することで、相対的に原始的な情動は抑えられていくという脳の性質があるからです。

また、いたずらに恐怖や不安を煽られる状況では、とにかく論理でしか判断しないという決意をしておくことも重要です。

本来、論理と情動は相反するものです。

恐怖や不安で脅す人の言っていることを、論理的に考察し、対応する習慣をつけることで、いたずらに自分の情動に振り回され、コントロールされてしまう状況を防げます。

この人の言っていることは本当に正しいのか、こう考えることもできないか、もし正しいとしても何か方法はないだろうかなど、相手の主張を徹底的に分析し、吟味します。

言っていることを一度文字に書き出してみて、落ち着いて検討してみるのもいいでしょう。

そういう対応を取っていれば、情動が喚起され、ただただ相手に振り回されてしまうということは相対的に減っていきます。

 

4:知識をたくさんつけておく

議論の対象となっていることに関する知識をたくさんつけておくことも大切です。

恐怖や不安を脅してくる人の中には、それなりの専門性や論理性、そして正しい主張を持って脅してくる人もいます。

さきほども言った通り、ほとんどのそういう人は大したこともないことに「大変だ、大変だ」と大騒ぎしているだけなのですが、例外的に本当に緊急性の高いことを極めて論理的な考察をベースとしながら、恐怖や不安で脅すような形で提示する人もいるのです。

そういう人の言っている内容だけを参考にできればいいのですが、いらぬ恐怖心を植え付けられる場合があり、そのことは大変問題です。

その対策としては、自分にとって議論の対象になるような重要性の高いものに関しては、しっかりと自分でも知識をつけるという習慣を持っておくとよいでしょう。

知らないまま判断を他人任せにしていると、恐怖や不安を大声で騒ぎ立てる人にすぐに引きずり込まれてしまいます。

恐怖や不安を感じるというのも、知らないからこそかきたてられるという面があります。

よくよく理解してしまえば、たとえそこに問題があったとしても、淡々と最善の方法を選択してくだけです

よく知らないからこそ、大声で危険を騒ぎ立て、その問題についてよく知っている(あるいは知っているふりをする)人にコントロールされてしまうのです。

だったら、その人よりも知識をつけ、知ってしまえば無用にコントロールされることはなくなるというわけです。

 

ところで、だれも知ることのできない、不安や恐怖を感じる対象が一つだけあります

そしてそれは、恐怖や不安をあおるためのかっこうの材料として、古今東西頻繁に使われてきました。

それは「死後の世界」です。

これだけはだれにも知りようがないうえ、考え出すと怖いものです。

お釈迦様は、死後の世界について弟子に質問されても、答えなかったそうです。

これを「無記」と言います。

考えても仕方のないことを考えるよりは、もっと目の前の考えるべきことを考えなさいということです。

 

まとめ

この記事では、人を導く職業の人の中に、恐怖や不安を使って脅し、コントロールしようとする人がいるという問題を提起しました。

恐怖や不安によってコントロールされる際のマインドのメカニズムを解説し、脅す人の典型的なやり方とその対策について書きました。

これらすべてをしっかりと知的に理解しておくことが必要であるということでした。

参考になりましたら幸いです。

 

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「人のために」なることなんて即やめなさい


苫米地式認定コーチ, TICEコーチの高嶋芳幸です。

 

「人のためになることをしたい」

 

私のもとに相談に来られる方の中には、そのようにおっしゃる方がいます。

そして実際に、その人の思う人のためになるような行動をとっているようです。

また、「人のために」を大きく前に掲げて活動している方も多くいます。

では、そういった人達がハッピーになっているかといえば、必ずしもそうではないように見えます。

これは何も私の主観ではなく、その後そういった人がどのように感じるかを聞いてみると、

「人のためになるように一生懸命やっているのに報われない」

という内容に集約されるからです。

さらに、これはあくまで主観ですが、どこか不自然に感じるそういう「人のため」には、実際、相手のためにもなっているようには見えません。

なぜこんなことが起きるのでしょうか。

そこでこの記事では、

「人のためになることをしたい」

「人のためになることはいいことだ」

「人のために私はこういうことをやっている」

「人のためになることをやっている自分は正しいのだ」

などといった宣言に対して、

「本当にあなたの言う『人のために』は正しいのか」という視点を提示したいと思います。

 

「人のために」の脳の仕組み

まずは脳の仕組みの話から入りましょう。

人間が進化を遂げた結果獲得した脳の部位に、前頭前野と呼ばれるものがあります。

前頭前野はちょうどおでこの裏側にあたりにあり、そこではおおまかに分けて二つの機能が作用しています。

一つ目の働きは、論理的に物事を考えることであり、二つ目の働きは情動的に物事を感じることです。

それぞれの働きの対応箇所は、前頭前野外側部前頭前野内側部と呼ばれます。

前頭前野外側部の論理的に考える働きというのは、物事を推論したり、計画したりといった人間の知的活動全般に関わる機能であるといえます。

一方、情動的に物事を感じるとはどういう働きでしょうか。

実はこのときの「情動的」とは一般にイメージされるような単なる感情の動きとは違います。

一般にイメージされる感情の動きとは、扁桃体と呼ばれる部位が機能した際に生じるもので、生命維持の本能に直結した、個人的、利己的な感情のことです。

前頭前野内側部が働いた際の情動は、そのような自分の欲望だけに忠実な次元の低い情動ではなく、他人を含む広くみんなのことを思いやり、その成功を心から喜ぶことができる情動です。

こういった情動を、単なる自分のための欲求からくる情動とは区別して、社会的情動と呼びます。

 

社会的情動は教育によって強化していく

人間にはこのような社会的情動、つまり、他人のことを思いやり、その成功を心から願うような脳の働きが備わっています。

ところが、人間ならばこの機能が誰でも等しい水準で働くのかといえばそうではありません。

このことは、広く世の中を見回せば当たり前の話として理解できるでしょう。

自分の我欲だけにとらわれて行動しているように見える人の例を山ほどみつけることができます。

もちろん、そういう人で埋め尽くされてしまえば、社会は滅びてしまいます。

社会が滅びてしまえばいいかどうかはここでは議論しませんが、まあ、よくないことでしょう。

だからこそ、必ずしも自然に獲得できるわけではない社会的情動の働きを、私たち人間は後天的に学習していかなくてはならないわけです。

そのためには、子供に対しては教育(ここでの教育は親が分担するようなしつけの部分も含みます)の中でそういった働きかけを行い、大人に対しては、脳の仕組みを知的に理解してもらい再教育していく必要があるのです。

とにかく、どこまで達成しているかは別として、人間には人の役に立って嬉しくなるという脳の働きが実際にあるということはお分りいただけたと思います。

 

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スコトーマとは認知的盲点のことである

ここでひとつ、コーチングの概念を導入したいと思います。

スコトーマです。

コーチングを学ぶみなさんにとってはおなじみの概念ですが、少しだけここで説明しましょう。

スコトーマとはもともと生理学の用語で、人間の目の仕組み上、どうしても盲点になってしまう箇所のことを言います。

網膜には中で脳と直結した視神経が集中している箇所があり、その部分はちょうど穴上に盲点となってしまうのです。

コーチングの理論の中では、この用語の「盲点」というコンセプトを借用してを拡張し「物理的、情報的を問わず、認識できない物事、あるいはその領域」のことをスコトーマと呼びます。

このことから、スコトーマのことは「認知的盲点」と呼ぶこともあります。

たとえば、あなたはいまこの文章を読んでいる時、そばでごうごうと鳴っているエアコンの音をのことを忘れているはずです。

また、スマートフォンでこの記事を読んでいるとしたら、その際の手がスマートフォンに触れている感触も忘れているはずです。

私がこのように書けば、それらは再び認識に上がったはずですが、それまでは認識の外側に追いやられていたでしょう。

決して聞こえていない、感じていないわけではないのですが、人間の脳はそのように特定の認識を隠したりするのです。

このような認識の外側を前提とした、その対象、作用、領域のことをスコトーマと呼びます。

 

なぜスコトーマが必要なのか

では、なぜスコトーマができるのでしょうか。

人間には、重要性に基づいて情報を認識し、重要なものには意識を向け、そうでないものには意識を向けないという性質があるからです。

あなたがもしカフェの店員だとしたら、街に新しくできたカフェが比較的容易に認識にあがってくるはずです。

それはあなたにとって、カフェが重要なものだからです。

重要なものが決まるということは、相対的に重要ではないものも決まります。

大事だと感じているものに関する情報は欲しいでしょうが、そうでもないものに関する情報がぽんぽんと自分の中に入ってきては困ります

そこで大事でない情報はスコトーマの中に隠してしまい、認識に上げなくしてしまうのです。

先ほどの例でいえば、この文章を読んでいるのに(大事なこと)、いちいちエアコンの音(さほど大事ではないこと)が意識に上がってきては邪魔で仕方がないでしょう。

このように、人間の脳は極めて自然なこととして、極めて容易にスコトーマを作るのです。

 

正しさを作り出す

さて、人のためになることをしようと思っているのに、なかなかハッピーになれない人の脳内はどのような状態なのでしょうか。

人間の脳の仕組みからすれば、人のためになることを心からやりたいと思っていればハッピーを感じられるはずでした。

にもかかわらずハッピーではないということは、社会的情動を感じるような正しい形での「人のため」をやれていない可能性があります。

そして、おそらくこの場合、「人のためにやる」という行為を行うことで何か大きなスコトーマを作っていると考えられます。

このときのスコトーマとして一番考えられることはなんでしょうか。

それは、自分に目を向けるということでしょう。

人という他者にフォーカスをすることで、自分にフォーカスをすることをスコトーマに隠してしまっているということです。

もしかしたら、「人のためになることをする」と言っている人は、そういうことをやることで、自分を褒めてもらいたいという欲求が強くあるのかもしれません。

あるいは、人よりも優位に立ちたいという欲求があるのかもしれません。

コーチングの世界では、これらはいずれも自己評価の低さに起因すると考えます。

自分を自分でしっかりと評価できていれば、本来であれば他者の評価など不要なはずです。

もし、それができていないのであれば、そのような自己評価の低い自分を観察し、自分の望ましい方向へと淡々と改変していくことがよいはずです。

そしてそのツールとして、コーチングの理論は大変すぐれたものとなっています。

しかし、自分を冷静に観察することが難しく、それを避けたいものだから、わざわざ他者にフォーカスをし、自己観察や自己改変の作業をスコトーマに入れてしまうケースは多く見られます

その上そこに、「人のためになることをやる」という社会通念上「良いこと」とされている建前が入り込むことで、ますますその行為の正しさが保証され、スコトーマが強くなってしまいます

ますます自分が見えなくなるということです。

あるべき「人のため」とは社会的情動がしっかりと働いている状態のことでした。

しかしこれでは、自己観察を避けたいという扁桃体優位の我欲のために、社会的に良いこととされている「人のため」を表面的に利用しているだけにすぎません。

このような「人のため」を繰り返せば、周囲は混乱し、本人もますますハッピーから遠のいてしまうことでしょう。

当たり前ですが、本当に意味で人のためになることなんてできるわけがありません。

 

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抽象度とは何か

では、そういった状況に対して、どのように考えていけばいいのでしょうか。

コーチングには、抽象度という概念があります。

難しい定義はここでは書かず、ここではその運用を実際に見てもらうことで、この概念を理解していただきたいと思います。

まず、目の前にコーヒーと紅茶があると想像してみてください。

湯気が立ち、辺りには香りが立ち込めています。

このまま想像をめぐらすのもいいのですが、概念としてのコーヒーと紅茶について考えてみて欲しいと思います。

これらの共通点はなんでしょうか。

むろん、いずれも飲み物です。

いま、思考のプロセスをたどったように、二つ以上の物事の共通点を引き出した上で、それらの物事を包含した概念を作り出すプロセスを抽象度が上がったといいます。

このときの抽象度とは、視点の高さそのものでと考えることができます

たとえば、会社組織を考えてみましょう。

平社員は業務を平社員という視点でしか見ませんが、平社員全体を包含する課長は、業務を「平」のひとつ上の抽象度の「課」全体の視点で眺め、判断を下します。

もちろん実際にそのような平社員、課長ばかりではないでしょうが、少なくとも役割としてはそのようなことが期待されるはずです。

このように、抽象度が上がるということは視点が上がることそものもなのです。

 

視点を上げて「人のために」を観察する

人のためにやっているのに何だかうまくいかない、そのような人は、その「人のために行っている」の「人」という他者をひとつ上の抽象度から観察するとよいでしょう。

他者だけのフォーカスするのではなく、他者と自分をひとつ上の抽象度から同時に観察する視点を作り、眺めてみるということです。

そうすることで、「人のためにやっていること」に対する様々な仮説が浮かび上がってきます。

 

・それは本当の意味で人のためになっているのか、自分がそうしたいからといって、かえって相手の成長を奪っているのではないか

・人のためになっているかもしれないが、自分を不幸にしていないか

人のためにと口で入っているが、ほんとうは自分と向かい合うことから逃避しているだけではないのか

・人のためにを自分を正当化する錦の御旗にしてしまっているのではないか

・人のためにという反論し難い建前をかかげることで、周囲をコントロールしようとしているのではないか

・人のためにということで、褒められること、評価されることを期待しているのではないか

 

このように、自分と他者をひとつ上の抽象度から見れば、「人のために」がもしかしたら正しくないかもしれないという視点がたくさん出てきます

もしこういったところが自分にあるとしたら、それは本当の意味での人のためではなく、結局のところ自分のためであるということでしょう。

 

常に高い視点から自己、他者、状況を確認しよう

そのような自分を発見してしまったとしたら、一体どうすればいいのでしょうか。

まずは発見したことを素直に喜べばよいでしょう

発見したからこそ、この先良い方向へと変えることができるからです。

そこでわざわざ自己評価を下げる必要はありません。

そして次は、「人のためという建前でさまざまなものをスコトーマにしてしまっているなんて、自分らしくない、次はしないぞ」と解釈を与えます。

基本的にはこれを繰り返していくだけです。

私たちはつい、「人のため」、「利他」、「組織のため」、「みんなのため」、「あなたのため」という言葉に騙されてしまいます。

他人から言われても騙されてしまいますし、恐ろしいことに、そういった言葉で自分自身を騙してしまうことすらあるのです。

それは私たちが、人のために何かすることが本質的には正しいことであり、大きな喜びを生む素晴らしいことだと強く実感しているからでしょう。

だからこそ私たちは、抽象度を上げ、自己と他者をダイナミックに観察し、状況を見ながら、より望ましい方向へ進むように瞬間ごとに判断していく必要があるのです。

そういったアプローチを繰り返すことで、自分のための「人のため」は、だんだんと本当の意味での「人のため」となっていくでしょう。

やがて、大きな幸福感を感じられるようになるはずです。

 

まとめ

「人のため」に一生懸命なのに、なぜだかハッピーになれない、なぜだか周りに満足を与えられないという状況について書かれた記事でした。

「人のため」という反論し難い建前を掲げることで、自分や状況をスコトーマに入れ、観察できていないからこそ本当の意味での「人のため」ができていないということでした。

抽象度を上げ、高い視点から観察を繰り返すことで、少しづつ本当の意味での人のためになることを行えるようになるべきであるということでした。

参考になりましたら幸いです。