教育コーチング

教育のプロが教える、子どもを信じることができる親のメンタリティ


コーチングを通してたくさんの親と話をしてみると、心配にさいなまれている親がたいへん多いということに驚かされます。

何に対する心配かといえば、当然、我が子に対する心配です。

この子が中学受験に失敗しないか心配、この子が就職できなかったらと思うと心配、この子に友達ができないんじゃないかと心配、特に何がというわけではないけどとにかく心配……、親は子どものありとあらゆることを心配に感じてしまいます。

もちろんこういった感情は極めて自然なことですが、心配しすぎることで生じる負の側面にも目を向けておく必要があります。

そこで今回は、親が子どもに対して心配をするということがどういう意味を持つか、そして、心配とどのように付き合っていくかについて書いてみたいと思います。

心配とリスク管理

まずは心配とは何なのか考えてみましょう。

心配とはこうなってほしくないということを想像して嫌な気分になることです。

ここには2つの要素が含まれています。

1つは「こうなってほしくないということを想像する」こと。

もう1つは「嫌な気分になる」ことです。

この2つが満たされることではじめて心配が成立します。

ということは、「こうなってほしくないということを想像する」ことだけでは心配とは呼べないのです。

そのあとに「嫌な気分になる」かどうかで、行動が大きく変わってきます。

もし、「嫌な気分」にならなければ、こうなってほしくないということを避けるための理性的で論理的な対策を取ることができます。

そしてその対策をできるだけ上手に実行しようとするでしょう。

これは心配とは呼べません。

さしあたってこの状態を心配と対比して、「リスク管理」と呼んでおきましょう。

この「リスク管理」はまったく問題がないどころか、たいへん重要なものです。  

さて、まとめると、「心配」と「リスク管理」の違いは以下のようになります。

 

「心配」とは、こうなってほしくないということを想像して嫌な気分になることであり、結果として感情的で非論理的な行動を取ることである。 「リスク管理」とは、こうなってほしくないことを想像して対策を思考し、結果として理性的で論理的な行動を取ることである。

 

おわかりいただけたでしょうか。

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心配がよくない理由

心配することの負の側面とはどのようなものでしょうか。 2つほどあげてみましょう。

 

1:親の体に悪い

当たり前ですが、過度の心配は体に毒です。

心配をするような出来事を目撃したとき、脳内では海馬と扁桃体が連携プレーを行い、自分の嫌な記憶を引っ張り出します。

その結果、目の前の出来事への不安感が体中に駆け巡ります。

同じような反応の仕方を繰り返しているうちに、そういった思考のパターンが前頭前野に形成されていきます。

前頭前野には眼窩内側部という部位があり、そこは自律神経をコントロールする視床下部とつながっています。

そうすると自律神経がくるってしまい、自律神経失調症があらわれはじめます。 俗にいうノイローゼです。

このように、心配のようなネガティブな感情にとらわれてしまうと、体へのダメージが深刻なものになる可能性があるのです。  

 

2:子どものエフィカシー下がる

過度の心配の結果、子どものエフィカシーが下がってしまうのも問題です。

エフィカシーとは、コーチング用語で、「ゴールを達成するための自己の能力の自己評価」のことです。

エフィカシーは自己評価なので、子ども自身が上げていけばいいのですが、実際には他人の接し方によっても大きく変わってしまいます。

とりわけ親の子どものエフィカシーへの影響力はものすごく大きいのです。 子どもへの心配を裏側から考えてみると、子どものゴール達成の能力を疑っているということができます。

ゴール達成の能力とまで大げさなものでなくても、子どもに対する「あなたはうまくできない」という強烈なメッセージになり得るのです。

こういったメッセージを四六時中受け取った子どもはどのようになるでしょうか。

当然「自分は物事をうまく乗り越えることができないのだ」と考えるようになります。 エフィカシーの低い状態です。

エフィカシーの怖いところは、そのようなエフィカシーを本人が受け入れてしまった瞬間に、ほんとうにそれだけのパフォーマンスしかできなくなってしまうという点です。

このように、親の子どもへの過度の心配は、子どものエフィカシーを引き下げ、子どもに深刻なダメージを与えます。  

 

*エフィカシーを上げることに関する記事はこちらをご覧ください

「自分に自信が持てない人のための処方箋(基礎編)」

「自分に自信が持てない人のための処方箋(発展編1)」

「自分に自信が持てない人のための処方箋(発展編2)」

 

親が子どもにできるのは信じること

さて、それでは親はどのように対応すればいいのでしょうか。

親に求められることは、子どもを信じることです。

こういうと「なんだそんなことか、子どもを信じることが大切なことくらい知ってるよ」と思われるかもしれません。

確かに、子どもを信じるという言葉は多くの教育関係者が強調していることですし、その意味ではいわば「手垢にまみれた」言い回しであることは承知しています。

しかし、私の見た限りでは、信じるという行為にもいろいろと誤解があるように思えます。 ここからはそれについて書いていきます。  

 

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信じるとはどういうことか

子どもを信じなさいと伝えると、よくあるのが次のような反応です。

「今回のテストが悪くて、次のテストでいい点がとれるか心配だったのですが、信じることにします。前回のテストではしっかりと点がとれていたのですから」

「娘の将来が心配でしたが、信じることにします。だって娘は趣味もいいし、容姿も悪くないし」

ここであげた例のような態度は、信じるとは言いません。

少なくとも私が伝えようとしている「信じる」でありません。

なぜなら、信じるための担保を必要としているからです。

つまり、子どもを信じるための材料を必要としているということです。

確かにテストでいい点をとったことがあるという実績や、趣味がよくて容姿がいいという事実は、子どもを信じる後押しをしてくれるように思えます。

しかし、ここには罠があるのです。

そういった信じるための材料には、いくらでも反論できてしまうということです。

前回のテストが良かったから次回良いかどうかなんてわからないし、我が子より趣味もよく容姿もいい人なんていくらでもいるかもしれません。

このように、信じるための担保は意外にも脆いものなのです。

その担保が脆くも崩れ去ってしまったとしたら、それは子どもを信じていることになるのでしょうか。

テストで良い点をとったことがあるから信じるというとき、その裏側には、とったことがなければ信じないけどねという本音が隠れています。

こういう態度ではとても子ども信じているとは呼べません。

ここでいう信じるとは、一切の担保なく、絶対的に子どもを信じるということです。

つまり過去も根拠も一切関係がなく、「あなたはできる」と言い切ることができるかどうかなのです。

この違いがおわかりでしょうか。

信じるとは絶対的なものであり、その意味で信じる側の能動的な自己決定なのです。 

信じることはできませんという人は

そうはいっても、なかなか根拠もなく信じることができませんという親もいます。

心配しないでください。

何度も自身の中で繰り返していると、だんだんとできるようになってきます。

もしかしたら、信じると疑うという二つの状態をデジタルに考えすぎなのかもしれません。

100%疑うの状態から100%信じるの状態へと飛躍しなければならないと感じているのかもしれません。

それができず、信じると言い切りたいがまだ疑っている自分もいると矛盾を感じてしまうのかもしれません。

そう思い悩む必要はありません。

なぜなら、絶対的に信じるとは、自分の中にある矛盾すら関係なく信じるという強い決意のことだからです。

矛盾があるから信じられないとは、結局のところ理由を求めてしまっているのです。

自分の中にある矛盾すら気にせず、子どもを信じると決めることが大切なのです。

そうすれば、時間とともに自分の中の確信度は必ずあがっていきます。

放任すればいいのかという人

絶対的に信じると決めた結果、子どものあらゆることから手を引いてしまうべきなのかという勘違いをする方もいます。

絶対的に信じるからといって、子どものすべてに関わらないということではありません。

特に子どもはまだ知識が少ないので、親は気づいても本人が気づいていないリスクというものがたくさんあるはずです。

それについては論理的にしっかりと伝えていくことが大切です。

すでに書きましたが、これは「心配」ではなく「リスク管理」の一環となります。 また、親の意見を伝えることも問題ありません。

意見を伝えるとは、一人の人間としてこう思うということを冷静に伝えることであり、心配にかこつけて価値観を押し付けることではありません。

以上のように、正しく子どもと関わっていくことはあってよいのです。  

まとめ

この記事では、親が子どもを過度に心配することはよくないという内容でした。

心配ではなく、子どものリスク管理を行った上で信じることが大切です。

その際の信じるとは、「一切のものと関係がなく絶対的に信じるという強い決意」のことでした。

参考にしていただけると幸いです。  

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