「人のためになることをしたい」
私のもとに相談に来られる方の中には、そのようにおっしゃる方がいます。
そして実際に、その人の思う人のためになるような行動をとっているようです。
また、「人のために」を大きく前に掲げて活動している方も多くいます。
では、そういった人達がハッピーになっているかといえば、必ずしもそうではないように見えます。
これは何も私の主観ではなく、その後そういった人がどのように感じるかを聞いてみると、
「人のためになるように一生懸命やっているのに報われない」
という内容に集約されるからです。
さらに、これはあくまで主観ですが、どこか不自然に感じるそういう「人のため」には、実際、相手のためにもなっているようには見えません。
なぜこんなことが起きるのでしょうか。
そこでこの記事では、
「人のためになることをしたい」
「人のためになることはいいことだ」
「人のために私はこういうことをやっている」
「人のためになることをやっている自分は正しいのだ」
などといった宣言に対して、
「本当にあなたの言う『人のために』は正しいのか」という視点を提示したいと思います。
「人のために」の脳の仕組み
まずは脳の仕組みの話から入りましょう。
人間が進化を遂げた結果獲得した脳の部位に、前頭前野と呼ばれるものがあります。
前頭前野はちょうどおでこの裏側にあたりにあり、そこではおおまかに分けて二つの機能が作用しています。
一つ目の働きは、論理的に物事を考えることであり、二つ目の働きは情動的に物事を感じることです。
それぞれの働きの対応箇所は、前頭前野外側部、前頭前野内側部と呼ばれます。
前頭前野外側部の論理的に考える働きというのは、物事を推論したり、計画したりといった人間の知的活動全般に関わる機能であるといえます。
一方、情動的に物事を感じるとはどういう働きでしょうか。
実はこのときの「情動的」とは一般にイメージされるような単なる感情の動きとは違います。
一般にイメージされる感情の動きとは、扁桃体と呼ばれる部位が機能した際に生じるもので、生命維持の本能に直結した、個人的、利己的な感情のことです。
前頭前野内側部が働いた際の情動は、そのような自分の欲望だけに忠実な次元の低い情動ではなく、他人を含む広くみんなのことを思いやり、その成功を心から喜ぶことができる情動です。
こういった情動を、単なる自分のための欲求からくる情動とは区別して、社会的情動と呼びます。
社会的情動は教育によって強化していく
人間にはこのような社会的情動、つまり、他人のことを思いやり、その成功を心から願うような脳の働きが備わっています。
ところが、人間ならばこの機能が誰でも等しい水準で働くのかといえばそうではありません。
このことは、広く世の中を見回せば当たり前の話として理解できるでしょう。
自分の我欲だけにとらわれて行動しているように見える人の例を山ほどみつけることができます。
もちろん、そういう人で埋め尽くされてしまえば、社会は滅びてしまいます。
社会が滅びてしまえばいいかどうかはここでは議論しませんが、まあ、よくないことでしょう。
だからこそ、必ずしも自然に獲得できるわけではない社会的情動の働きを、私たち人間は後天的に学習していかなくてはならないわけです。
そのためには、子供に対しては教育(ここでの教育は親が分担するようなしつけの部分も含みます)の中でそういった働きかけを行い、大人に対しては、脳の仕組みを知的に理解してもらい再教育していく必要があるのです。
とにかく、どこまで達成しているかは別として、人間には人の役に立って嬉しくなるという脳の働きが実際にあるということはお分りいただけたと思います。
スコトーマとは認知的盲点のことである
ここでひとつ、コーチングの概念を導入したいと思います。
スコトーマです。
コーチングを学ぶみなさんにとってはおなじみの概念ですが、少しだけここで説明しましょう。
スコトーマとはもともと生理学の用語で、人間の目の仕組み上、どうしても盲点になってしまう箇所のことを言います。
網膜には中で脳と直結した視神経が集中している箇所があり、その部分はちょうど穴上に盲点となってしまうのです。
コーチングの理論の中では、この用語の「盲点」というコンセプトを借用してを拡張し「物理的、情報的を問わず、認識できない物事、あるいはその領域」のことをスコトーマと呼びます。
このことから、スコトーマのことは「認知的盲点」と呼ぶこともあります。
たとえば、あなたはいまこの文章を読んでいる時、そばでごうごうと鳴っているエアコンの音をのことを忘れているはずです。
また、スマートフォンでこの記事を読んでいるとしたら、その際の手がスマートフォンに触れている感触も忘れているはずです。
私がこのように書けば、それらは再び認識に上がったはずですが、それまでは認識の外側に追いやられていたでしょう。
決して聞こえていない、感じていないわけではないのですが、人間の脳はそのように特定の認識を隠したりするのです。
このような認識の外側を前提とした、その対象、作用、領域のことをスコトーマと呼びます。
なぜスコトーマが必要なのか
では、なぜスコトーマができるのでしょうか。
人間には、重要性に基づいて情報を認識し、重要なものには意識を向け、そうでないものには意識を向けないという性質があるからです。
あなたがもしカフェの店員だとしたら、街に新しくできたカフェが比較的容易に認識にあがってくるはずです。
それはあなたにとって、カフェが重要なものだからです。
重要なものが決まるということは、相対的に重要ではないものも決まります。
大事だと感じているものに関する情報は欲しいでしょうが、そうでもないものに関する情報がぽんぽんと自分の中に入ってきては困ります。
そこで大事でない情報はスコトーマの中に隠してしまい、認識に上げなくしてしまうのです。
先ほどの例でいえば、この文章を読んでいるのに(大事なこと)、いちいちエアコンの音(さほど大事ではないこと)が意識に上がってきては邪魔で仕方がないでしょう。
このように、人間の脳は極めて自然なこととして、極めて容易にスコトーマを作るのです。
正しさを作り出す
さて、人のためになることをしようと思っているのに、なかなかハッピーになれない人の脳内はどのような状態なのでしょうか。
人間の脳の仕組みからすれば、人のためになることを心からやりたいと思っていればハッピーを感じられるはずでした。
にもかかわらずハッピーではないということは、社会的情動を感じるような正しい形での「人のため」をやれていない可能性があります。
そして、おそらくこの場合、「人のためにやる」という行為を行うことで何か大きなスコトーマを作っていると考えられます。
このときのスコトーマとして一番考えられることはなんでしょうか。
それは、自分に目を向けるということでしょう。
人という他者にフォーカスをすることで、自分にフォーカスをすることをスコトーマに隠してしまっているということです。
もしかしたら、「人のためになることをする」と言っている人は、そういうことをやることで、自分を褒めてもらいたいという欲求が強くあるのかもしれません。
あるいは、人よりも優位に立ちたいという欲求があるのかもしれません。
コーチングの世界では、これらはいずれも自己評価の低さに起因すると考えます。
自分を自分でしっかりと評価できていれば、本来であれば他者の評価など不要なはずです。
もし、それができていないのであれば、そのような自己評価の低い自分を観察し、自分の望ましい方向へと淡々と改変していくことがよいはずです。
そしてそのツールとして、コーチングの理論は大変すぐれたものとなっています。
しかし、自分を冷静に観察することが難しく、それを避けたいものだから、わざわざ他者にフォーカスをし、自己観察や自己改変の作業をスコトーマに入れてしまうケースは多く見られます。
その上そこに、「人のためになることをやる」という社会通念上「良いこと」とされている建前が入り込むことで、ますますその行為の正しさが保証され、スコトーマが強くなってしまいます。
ますます自分が見えなくなるということです。
あるべき「人のため」とは社会的情動がしっかりと働いている状態のことでした。
しかしこれでは、自己観察を避けたいという扁桃体優位の我欲のために、社会的に良いこととされている「人のため」を表面的に利用しているだけにすぎません。
このような「人のため」を繰り返せば、周囲は混乱し、本人もますますハッピーから遠のいてしまうことでしょう。
当たり前ですが、本当に意味で人のためになることなんてできるわけがありません。
抽象度とは何か
では、そういった状況に対して、どのように考えていけばいいのでしょうか。
コーチングには、抽象度という概念があります。
難しい定義はここでは書かず、ここではその運用を実際に見てもらうことで、この概念を理解していただきたいと思います。
まず、目の前にコーヒーと紅茶があると想像してみてください。
湯気が立ち、辺りには香りが立ち込めています。
このまま想像をめぐらすのもいいのですが、概念としてのコーヒーと紅茶について考えてみて欲しいと思います。
これらの共通点はなんでしょうか。
むろん、いずれも飲み物です。
いま、思考のプロセスをたどったように、二つ以上の物事の共通点を引き出した上で、それらの物事を包含した概念を作り出すプロセスを抽象度が上がったといいます。
このときの抽象度とは、視点の高さそのものでと考えることができます。
たとえば、会社組織を考えてみましょう。
平社員は業務を平社員という視点でしか見ませんが、平社員全体を包含する課長は、業務を「平」のひとつ上の抽象度の「課」全体の視点で眺め、判断を下します。
もちろん実際にそのような平社員、課長ばかりではないでしょうが、少なくとも役割としてはそのようなことが期待されるはずです。
このように、抽象度が上がるということは視点が上がることそものもなのです。
視点を上げて「人のために」を観察する
人のためにやっているのに何だかうまくいかない、そのような人は、その「人のために行っている」の「人」という他者をひとつ上の抽象度から観察するとよいでしょう。
他者だけのフォーカスするのではなく、他者と自分をひとつ上の抽象度から同時に観察する視点を作り、眺めてみるということです。
そうすることで、「人のためにやっていること」に対する様々な仮説が浮かび上がってきます。
・それは本当の意味で人のためになっているのか、自分がそうしたいからといって、かえって相手の成長を奪っているのではないか
・人のためになっているかもしれないが、自分を不幸にしていないか
・人のためにと口で入っているが、ほんとうは自分と向かい合うことから逃避しているだけではないのか
・人のためにを自分を正当化する錦の御旗にしてしまっているのではないか
・人のためにという反論し難い建前をかかげることで、周囲をコントロールしようとしているのではないか
・人のためにということで、褒められること、評価されることを期待しているのではないか
このように、自分と他者をひとつ上の抽象度から見れば、「人のために」がもしかしたら正しくないかもしれないという視点がたくさん出てきます。
もしこういったところが自分にあるとしたら、それは本当の意味での人のためではなく、結局のところ自分のためであるということでしょう。
常に高い視点から自己、他者、状況を確認しよう
そのような自分を発見してしまったとしたら、一体どうすればいいのでしょうか。
まずは発見したことを素直に喜べばよいでしょう。
発見したからこそ、この先良い方向へと変えることができるからです。
そこでわざわざ自己評価を下げる必要はありません。
そして次は、「人のためという建前でさまざまなものをスコトーマにしてしまっているなんて、自分らしくない、次はしないぞ」と解釈を与えます。
基本的にはこれを繰り返していくだけです。
私たちはつい、「人のため」、「利他」、「組織のため」、「みんなのため」、「あなたのため」という言葉に騙されてしまいます。
他人から言われても騙されてしまいますし、恐ろしいことに、そういった言葉で自分自身を騙してしまうことすらあるのです。
それは私たちが、人のために何かすることが本質的には正しいことであり、大きな喜びを生む素晴らしいことだと強く実感しているからでしょう。
だからこそ私たちは、抽象度を上げ、自己と他者をダイナミックに観察し、状況を見ながら、より望ましい方向へ進むように瞬間ごとに判断していく必要があるのです。
そういったアプローチを繰り返すことで、自分のための「人のため」は、だんだんと本当の意味での「人のため」となっていくでしょう。
やがて、大きな幸福感を感じられるようになるはずです。
まとめ
「人のため」に一生懸命なのに、なぜだかハッピーになれない、なぜだか周りに満足を与えられないという状況について書かれた記事でした。
「人のため」という反論し難い建前を掲げることで、自分や状況をスコトーマに入れ、観察できていないからこそ本当の意味での「人のため」ができていないということでした。
抽象度を上げ、高い視点から観察を繰り返すことで、少しづつ本当の意味での人のためになることを行えるようになるべきであるということでした。
参考になりましたら幸いです。