いきなりですが、
「この文章を一度読み始めたら必ず最後まで読んでください。
さもなくば、あなたの人生にとって良くないことが起こるでしょう」
と、この記事が始まったとしたらいかがでしょうか。
そしてこう続きます。
「私のこの記事を最後まで読めば、良くないことを回避することができます」
ある人は、
「なんだ馬鹿馬鹿しい」
と記事を読むのをやめてしまうかもしれません。
しかし、ある人は、
「えっ、まさか」
と思いながらも、うっすらと恐怖、不安を感じてしまい、先が気になり、読み進めてしまうでしょう。
このように恐怖や不安には人と引き摺り込む力があるのです。
残念なことに、本来なら人を救うべき役割の人間が、相手の恐怖や不安といった情動につけ込み、巧みにコントロールして相手をいいなりにさせるという事態が世の中には存在します。
そこでこの記事では、その実態、メカニズムを明らかにし、そういった脅しでのコントロールからどのように身を守ればいいのかについて書きたいと思います。
脅して人を助けようとする人たち
世の中にはたくさんの職業があります。
その中でも、人間同士が向かい合い、一対一で心身の深い部分から関わっていく職業といえばなんでしょうか。
教師、カウンセラー、セラピスト、占い師、医者、ヒーラー、気功師、整体師などなど、上げていけばきりがありません。
あるいは、牧師、神父、僧侶といった宗教家もありますし、広い意味では親もそのような職業の一つかもしれません。
もちろん、私の職業であるコーチもそこには含まれてくるはずです。
さて、私自身コーチとして、そのように人と深く関わるような活動をしていると、表にはあまり出ない色々な話を耳にする機会が多くあります。
その内容は、こういった職業の中で、恐怖や不安で脅し続けるような関わり方が横行しているというものです。
改めて上記の職業を見てみればわかるとおり、それらが共通して担う役割といえば、相手をハッピーにすることでしょう。
それぞれの持つ知識と技術を活用し、相手の何らかの悩みを解決してあげたり、体の不調を整えてあげたり、より高いパフォーマンスが発揮できるようにしてあげたりします。
つまるところこれは、相手をハッピーにすることに他ならないわけです。
ところが、そういった役割を持つような上記の職業の中で、恐怖や不安を用いて相手を脅し、意のままにコントロールしようという悲しい関わり方をしている人がいるという話を聞くことがあります。
これは大変な問題であるといえるでしょう。
実際、相手は今よりハッピーになりたいからそういう人達と関わることを決めたのに、かえって特定の恐怖や不安に縛られ、相手のいいなりになってしまい、心身の自由を損なってしまったというケースが多くあるのです。
臨場感とは何か
恐怖や不安によって操られてしまうとき、私たちのマインド(脳と心)にはどのようなことが生じているのでしょうか。
少し理論的に考えてみましょう。
まずは臨場感という概念について説明します。
臨場感とは、まるでその場に身を置いているかのようなリアルな感じのことをそう呼びます。
「身を置いているかのような」わけですから、臨場感が高いとは、単なる形だけの空想ではなく、強い情動を伴う体感を全身で味わっている状態です。
臨場感を理解するための一番わかりやすい例は、目の前に生じている物理的な世界です。
この文章を書いているのは真夏なので、外に出ればセミの鳴き声が聞こえ、太陽の光が皮膚をチリチリと刺し、どこまでも抜けるような青空が広がっています。
その際には、懐かしい気分になったり、イライラしたり、清々しい気持ちになったりと、さまざまな情動が湧き上がります。
まさに臨場感たっぷりに「真夏」を感じているわけです。
まさにリアルな「真夏」の中に身を置いていることを実感できるでしょう。
臨場感という概念が理解いただけたでしょうか。
臨場感の高い仮想世界が現実となる
ところで、脳の進化の結果、人間は物理的に目の前に広がっている世界のみならず、情報的な仮想世界に対しても臨場感を感じることができるようになりました(実は物理的に目の前に広がっている世界ですら仮想世界の一種であるということがわかっているのですが、ここではその議論には立ち入りません)。
最近は「ポケモンGO」が流行していますが、こういったゲームなどは仮想世界の典型でしょう。
そのような仮想世界に対しても、人間は「リアルな感じ」を維持することができるのです。
また、仮想世界は事実上無限に想定することができます。
ポケモンGOの世界も想定できますし、自分が大金持ちになっている世界もそうですし、あるいは、自分が犯罪者になっている世界だって想定できます。
そのいずれに対しても私たちは臨場感を感じることができるわけです。
ところが、私たちがそのどれもに対して臨場感を同時に持つかといえば、そうではありません。
なぜなら、臨場感を感じている仮想世界の整合的な全体は一つしか持ち得ないからであり、矛盾するような臨場感の仮想世界を同時に選ぶことは不可能からです。
例えば、大金持ちな自分と貧乏な自分の仮想世界に対する臨場感を同時に維持することはなかなか難しい、ということです。
さて、このときの整合的な全体のことをゲシュタルトといいます。
人間は可能性としての無限の仮想世界から、ある秩序をもったまとまりとしてのゲシュタルトをひとつ採用しています。
その採用基準はいったいなんなのでしょうか。
それは、さきほど説明した臨場感の強度です。
複数の臨場感が強い仮想世界が選ばれ、それらが矛盾せず、全体として秩序をもったゲシュタルトとなると、実際にその人はそういう世界を生きることになります。
まさにそれが現実となるということです。
現に、「ポケモンGO」をスマートフォンで歩きながらプレイすることで、あわや大事故というケースが多発していると聞きます。
これなどは、目の前に車がビュンビュン走っている世界よりも、ポケモンGOの仮想世界の方が臨場感高く、その人のゲシュタルトの中では車は無いも同様ということでしょう。
本来なら、目の前を高速で車が通りすぎれば体がビクッと反応するはずなのですが、それよりも「ポケモンのレアキャラを見つけて嬉しい」の臨場感のほうが強いわけです。
その際のゲシュタルトには、車が目の前を通り過ぎるという事実は含まれず、ないも同然になってしまいます(ただし、無意識の深い部分ではその存在を感じている可能性は高いですが)。
このように、強く臨場感を感じた仮想世界が、その人にとっての現実世界になってしまうわけです。
ただし、もしその人が車にはねられたとしたら、その瞬間にポケモンGOの臨場感世界は雲散霧消し、車にはねられた臨場感世界が現実のものとして採用されるでしょう。
当たり前ですが、車にはねられた際の痛みに勝るほどの臨場感は、ポケモンGOにはないからです。
とにかく、ここで大切なのは、臨場感の高い仮想世界が採用され、ゲシュタルトができると、それが私たちの現実として機能するという事実です。
人をコントロールするにはその人の臨場感を書き換える
さて、この臨場感の考え方が、この記事のテーマとどう関わってくるのでしょうか。
私たちはそれぞれが何かしらの仮想世界に臨場感を感じています。
そして、私たちをコントロールしようとする悪い人は、この私たちの臨場感を書き換え、自分に従うような仮想世界へと臨場感を強めるような働きかけをしてきます。
相手に従うのが正しいという仮想世界に対して臨場感を持ってしまうと、それがそのまま私たちの現実世界となってしまいます。
悪い人のために何かを捧げることが正義であり、自ら望んでそのような行動をとるようになります。
そういった方向へと私たちを誘導していくために、恐怖や不安の情動を使うことが実に有効なのです。
だからこそ卑劣な人は、恐怖や不安の情動を使い、私たちをコントロールしようとします。
なぜそれが問題かといえば、相手の心の傷になる可能性があるからです。
恐怖や不安のような強い情動を用いると、相手が長期間にわたって苦痛を感じるような影響を与えてしまうことになります。
悪いことに、その苦痛を取り除こうと、ますます支配者に依存するようになり、結果として利用されてしまうのです。
そもそも、私たちのハッピーは、最後には私たち自身でしか決めることはできません。
にもかかわらず、誰かにコントロールされ、その人に依存してしまったとしたら、いかに相手が人を導く専門職の人であるといっても、私たちのハッピーは保障されません。
このように、恐怖や不安で人をコントロールすることは大変なリスクがあるのです。
ところで、実はこのあたりの解説は、具体的な方法論や因果関係を細かく書くことをあえて避けています。
この文章を読まれている方の中には、恐怖や不安で脅して相手を意のままに操ってやろうという卑劣な人間はいないと信じていますが、万が一の場合を考え、真似ができないように書いています。
とにかくここでは、人間を操るのに恐怖や不安はものすごく使いやすく、それはリスクのあることだということがわかっていただければ問題ありません。
そのような手法はいたるところに見られます。
実際にご自身の周りにもそういう人はたくさんいませんか。
上司や、友人や、メディア、親、親族、教師などはもちろんのことながら、先に挙げた職業の中にも思い当たる人物がいるかもしれません。
まずはそういった手法が存在し、安易にその手法を使って自分を操ろうとしてくる人間がいるのだとしっかりと自覚してください。
恐怖や不安の使われ方
恐怖や不安で人をコントロールしようとする人たちには、どのような特徴があるのか列挙してみましょう。
周りにいる人たちにこんな人はいないか、今一度チェックしてみてください。
まずは、なんと言っても強い言葉を多用するというやり方があげられます。
バカとか死ねといったストレートなきつい言葉を用いることから、厳しい口調で「本当にそれで正しいと思っているんですか」などと詰める、といった間接的なものまで様々です。
「このままではひどい目にあいますよ」、「とんでもなく苦しい目にあいますよ」といった未来の不確定な状況をマイナスな方向へと煽り、不安や恐怖を引き出そうというやり方を取ることもあります。
また、そういった強い言葉で直接相手を非難するようなことを言い続けると心が離れていくため、共通の敵を作り出し、そちらを叩くというやり方もよくみられます。
そして、「そういう人たちに私たちはひどい目にあっているのだ」と連帯意識を強めます。
共通の敵を設定して叩くことで、こちらは自分もそのように責められるかもという不安も感じますし、実際には共通の敵が自分たちにひどいことをしようとしているということで、自然と連帯感が高まるという実に巧妙なやり方です。
こういう人はみなさんのまわりにもいませんか。
あえてその場にいない人を過剰に叩くことによって、目の前の人との関係性を強めようとする人です。
それが正当な批判であれば、問題ありませんが、もしかしたらその人は、私たちをコントロールするためにそういうスタンスをとっているのかもしれません。
反論しにくい正しいことを過剰に言うというやり方もよく見られます。
たとえば、遅刻をしてしまったとか、言葉を間違って使ってしまったとか、一般的に正しいとは言い難いことを過剰に責め立てるということです。
直接コントロールしたい相手に向かって言うこともありますが、やはりここでも、その場にいない誰かをつるしあげることで目の前の人の情動を煽ります。
強気に正しそうなことを言われると、こちらはなんだかそれが普遍的に正しいことのように思ってしまったり、やはりここでも自分が責められているかのように感じてしまうのです。
確かめようのないことを担保に、何かを過剰に主張することも同様です。
確かめようがないのだから、当然反論しにくいのです。
「あんた地獄に落ちるわよ」などはその典型でしょう。
このように、恐怖や不安などの情動を用いて相手をコントロールする人は、様々なやり方で巧みにこちらの情動を煽ってきます。
その情動に付け込まれると、相手にコントロールされやすい状態になってしまうのです。
脅して人助けをすることに正当性はあるのか
ところで、冒頭にあげたような、人を導く職業について少し考えてみましょう。
そういった職業を担っている人のもとにやってくる人というのは、何かしらの悩みをかかえ、それを好転させたいという人であるはずです。
この状態を、さきほどの臨場感というキーワードで表現するのなら、自分の悩んでいるという仮想世界の臨場感を下げ、悩みのないハッピーな仮想世界へ臨場感を強く感じられるようになりたいということです。
人を導く職業の人はそのために、それぞれの専門的な知識や技術を総動員し、相手をハッピーな仮想世界へ臨場感を感じられるように手助けしてあげます。
たとえば、私の仕事であるコーチングであれば、「ゴールがしっかりと設定され、エフィカシー(ゴール達成のための自己の能力の自己評価)がどんどんと高まり、楽しく試行錯誤を繰り返しながらゴールへと向かっている」という仮想世界へ臨場感を感じてもらうように働きかけていくわけです。
また、医者であれば、治療行為を通して実際に患者の病気を治すとともに、自分は病気であるという仮想世界への臨場感を下げ、自分は健康であるという仮想世界への臨場感を高めてあげるということをやっているはずです。
ここで難しいのは、人には現状を維持しようとする強い力が働くということです。
一度臨場感が高まり、選択された仮想世界からはなかなか抜け出せないというわけです。
コーチングの例であれば、コーチが一生懸命関わっても、クライアントが「自分にはゴールが見つけられません」、「自分にはゴール達成なんてできません」という仮想世界臨場感が高く、そこからなかなか抜け出せないということです。
もっとも、しっかりとコーチングが機能されればそんなことにはなりえませんが。
とにかく、人は一度強い臨場感を感じた仮想世界が出来上がると、たとえそれが苦しく、頭では望んでいないものであっても、それを維持してしまうという厄介な性質があるわけです。
そういった場合、その臨場感の強い仮想世界をいったん崩していかなければなりません。
恐怖や不安を安易に用いる人の中には、この点を強調することがあります。
つまり、相手が現状の仮想世界に強く臨場感を感じているから、それを一度崩すために恐怖や不安を使うのだと主張するということです。
たしかに、恐怖や不安の情動を利用すれば相手の今感じている臨場感を揺らがすのは容易です。
しかし、さきほども書いたとおり、それには相手の心に傷を負わせるというリスクがありますし、そもそもそれ以外の安全な方法で誘導すればいいだけの話です。
相手に変わる意思がないにもかかわらず、どうしても相手に強烈に働きかけて変化させなければならないといった極めて特殊な状況なら、そういうやり方も部分的には許されるかもしれません。
しかし、相手が変わりたいと思ってやってきているわけですから、わざわざ恐怖や不安を用いて相手の臨場感を崩そうとする必要などないはずです。
きちんと正当な技術を使い、相手をハッピーな仮想世界の臨場感が高まるように誘導すればいいはずです。
それでは何のために恐怖や不安を用いて働きかけをするのかというと、自分の技術不足のためにそんな卑劣な手段を取るしなかないか、恐怖や不安を過剰に使うことで長期的に相手をコントロールし、顧客として囲うことくらいしか考えられないのではないでしょうか。
もし恐怖や不安をあえて使う正当な理由があるのだとしたら、教えて欲しいくらいです。
人を導く仕事についていながら、安易にそういった方法に手を出してしまっているとしたら、それは本当に相手のためなのかよく自己観察するべきでしょう。
恐怖や不安でコントロールする人への対策
さて、それでは私たちは、恐怖や不安でコントロールしようとする人に対してどのように気をつけておくべきなのでしょうか。
以下、4つほど対策をあげておきましょう。
1:恐怖や不安をあおる人の言うことは無条件で聞かない
まずは何といっても、恐怖や不安を用いて何かを主張する人の言うことは、無条件で聞かないということです。
どんなに立場のある人、権威のある人であっても、言うことを聞かないくらいの気持ちでいいでしょう。
何か主張があるのならば、きちんと論理的に説明をすればいいだけの話です。
もちろん、少しでも読者の興味を引くためのいわゆる「煽り」をまったくなくせというのも極端な話でしょう。
また、単にリスクを伝えるために、そのつもりはなくても恐怖や不安を喚起するような物言いが必要な場合だってあります。
しかし、ことあるごとに恐怖や不安で脅し、それが一定期間以上にわたって続くようであれば、その人のいうことは無条件で聞かないくらいの態度が安全でしょう。
そうすれば、知らず知らずのうちにコントロールされていた、ということもなくなります。
2:一貫性をチェックする
次に、一貫性をチェックするということがあげられます。
恐怖や不安で脅す人というのは、実は大したことを言っていない場合が多いです。
それもそのはずで、きちんと物事を考え、熟考できる人間であれば、恐怖や不安をいたずらにあおるという方法を安直に取るべきではないとわかるからです。
それゆえ、恐怖や不安で脅す人の行動を見ていると、一貫性に欠ける部分が出てきます。
そのような視点を維持し、発言と行動には一貫線があるのかをチェックし、この人は本当に信用に足るのかを判断しましょう。
また、恐怖や不安で脅す人は、そうする一方でこちらに対して人が変わったかのように異常に優しく接するという面がよく見られます。
いわゆるアメとムチです。
口汚く誰かを罵ったかと思えば、急にこちらには猫なで声で優しげなセリフを投げかけたりします。
そのように両極の情動で揺さぶることで、こちらを混乱させ、ますますコントロールを容易なものにしようとするのです。
その際にもやはり、内側に対する態度と外側に対する態度に一貫したものがあるのかをと冷静に判断する視点を維持することが重要です。
3:論理を判断の拠り所にする
恐怖や不安で脅す人は、強い情動が湧くことにつけ込んでこちらをコントロールしてきます。
だったら、究極の対策は、こちらの情動を停止してしまうことだとわかります。
そんなことできるのだろうか、と思われるかもしれません。
しかしそれはトレーニング次第で上手になっていきます。
実は、この記事を読み進めていただくこと自体がそのトレーニングになっていますので、ぜひ何度も繰り返し読んでみてください。
論理的、知的に物事を理解することで、相対的に原始的な情動は抑えられていくという脳の性質があるからです。
また、いたずらに恐怖や不安を煽られる状況では、とにかく論理でしか判断しないという決意をしておくことも重要です。
本来、論理と情動は相反するものです。
恐怖や不安で脅す人の言っていることを、論理的に考察し、対応する習慣をつけることで、いたずらに自分の情動に振り回され、コントロールされてしまう状況を防げます。
この人の言っていることは本当に正しいのか、こう考えることもできないか、もし正しいとしても何か方法はないだろうかなど、相手の主張を徹底的に分析し、吟味します。
言っていることを一度文字に書き出してみて、落ち着いて検討してみるのもいいでしょう。
そういう対応を取っていれば、情動が喚起され、ただただ相手に振り回されてしまうということは相対的に減っていきます。
4:知識をたくさんつけておく
議論の対象となっていることに関する知識をたくさんつけておくことも大切です。
恐怖や不安を脅してくる人の中には、それなりの専門性や論理性、そして正しい主張を持って脅してくる人もいます。
さきほども言った通り、ほとんどのそういう人は大したこともないことに「大変だ、大変だ」と大騒ぎしているだけなのですが、例外的に本当に緊急性の高いことを極めて論理的な考察をベースとしながら、恐怖や不安で脅すような形で提示する人もいるのです。
そういう人の言っている内容だけを参考にできればいいのですが、いらぬ恐怖心を植え付けられる場合があり、そのことは大変問題です。
その対策としては、自分にとって議論の対象になるような重要性の高いものに関しては、しっかりと自分でも知識をつけるという習慣を持っておくとよいでしょう。
知らないまま判断を他人任せにしていると、恐怖や不安を大声で騒ぎ立てる人にすぐに引きずり込まれてしまいます。
恐怖や不安を感じるというのも、知らないからこそかきたてられるという面があります。
よくよく理解してしまえば、たとえそこに問題があったとしても、淡々と最善の方法を選択してくだけです。
よく知らないからこそ、大声で危険を騒ぎ立て、その問題についてよく知っている(あるいは知っているふりをする)人にコントロールされてしまうのです。
だったら、その人よりも知識をつけ、知ってしまえば無用にコントロールされることはなくなるというわけです。
ところで、だれも知ることのできない、不安や恐怖を感じる対象が一つだけあります。
そしてそれは、恐怖や不安をあおるためのかっこうの材料として、古今東西頻繁に使われてきました。
それは「死後の世界」です。
これだけはだれにも知りようがないうえ、考え出すと怖いものです。
お釈迦様は、死後の世界について弟子に質問されても、答えなかったそうです。
これを「無記」と言います。
考えても仕方のないことを考えるよりは、もっと目の前の考えるべきことを考えなさいということです。
まとめ
この記事では、人を導く職業の人の中に、恐怖や不安を使って脅し、コントロールしようとする人がいるという問題を提起しました。
恐怖や不安によってコントロールされる際のマインドのメカニズムを解説し、脅す人の典型的なやり方とその対策について書きました。
これらすべてをしっかりと知的に理解しておくことが必要であるということでした。
参考になりましたら幸いです。