この記事には、より良く「相手に尽くし」「相手を褒める」ための考え方が書いてあります。
相手に「尽くす」「褒める」といった行為は無条件に正しいものと思われていますが、本当にそうでしょうか。確かに、相手に尽くす、相手を褒めるという行為により、良い状況が生まれることはあります。実際に、私の職業であるコーチングでも、こういった行為が行われる場合がまったくないとは言いきれません。しかし、そもそも本当に「尽くす」「褒める」はあらゆる状況において正しいものであると言えるのでしょうか。それについて考えてみましょう。
「尽くす」「褒める」は常に正しいわけではなく、自分や相手、そしてその関係すべてが良くなることにおいてのみ正しいと言えます。つまり、あらゆる状況において正しいというわけではありません。「尽くす」「褒める」ことで相手が嫌な気持ちになったり、自分がしんどくなったり、仲が悪くなったりするのであればそれは間違っているということです。調理器具や素材が高級で良さそうなものだからといって、必ずしも美味しい料理ができるわけではないというのと同じことです。以下では、二点ににわたって問題のある「尽くす」「褒める」を見ていきましょう。
問題のある「尽くす」「褒める」の一つ目は、自己犠牲が見られる場合です。「尽くす」「褒める」が仮に相手の為になっていたとしても、自分に対して何らかの悪影響がある場合がこれにあたります。たとえば、相手に尽くすためであれば、自分の時間や労力を惜しまないという人がいます。もちろんそれが自分にとっての心から喜びであり、見返りを一切求めないのであれば問題ありませんが、そうでないケースも多いようです。また、「褒める」べきだという信念(belief)が先にあり、本音に嘘をついてまで「褒める」ことを自分に強要しているように見られる場合もあります。いずれも相手に「尽くす」「褒める」ことが自己目的化し、自分自身を犠牲にしています。
問題のある「尽くす」「褒める」の二つ目は、相手のためになっていない場合です。本来「尽くす」「褒める」という行為は、相手になんらかの貢献をしたいという気持ちから来るものであるはずです。しかし、「尽くす」ことによって相手が依存するような状況が生まれることがあります。たとえば、「甲斐甲斐しく夫に尽くす妻」という古典的とも言えるステレオタイプがありますが、この妻は果たして夫のためになることをしているでしょうか。もちろん真相はわかりませんが、もしかすると夫を一人で自立できないだめな人に仕立て上げているかもしれません。また、褒め殺しという言葉があります。相手がだめになってしまうことを期待して褒めることです。さらに、世の中には、尽くすことで相手に気に入られようとしたり、褒めることで無意識のうちに相手をコントロールしようとするケースもあります。いずれも、「褒める」ことが相手のためになっていません。
こういった問題のある「尽くす」「褒める」がやめられない人は、「尽くす」「褒める」という煩悩に取り憑かれていると言えるでしょう。問題のある「尽くす」「褒める」ということが無意識の行動パターンになっていて、それを無批判に繰り返している状態です。コーチングの用語にセルフイメージ(self image)というものがあります。これは、自分の自分に対する認識のことです。そしてこのセルフイメージは、コーチングにおけるコンフォートゾーン(confortzone)そのものです。つまり、自分はこういう人間であるという認識は、マインドの中に一定の領域を持ち、そして無意識にそれを維持するような働きがあるということです。今回のケースでは、「褒める」「尽くす」という行為が自分や相手にとってどのような状況を生んでいるかを省みることなく、いつの間にか出来上がった反応パターンに執着し、ただそれを繰り返しているという状況です。こういったマインドの状態を、慣用的に煩悩に取り憑かれていると言います。
より正しく「尽くす」「褒める」ためには、抽象度(levels of abstraction)を上げ、LUB(least upper bound)を取っていく必要があります。抽象度とは、情報量の大小における概念の上下関係のことです。「リンゴ」「バナナ」「オレンジ」があったとき、その上位概念は「果物」です。さらにその上は「食べ物」です。これらのような概念の関係のことを抽象度と言います。そして、「リンゴ」「バナナ」「オレンジ」にとっての「果物」、「果物」にとっての「食べ物」というように、抽象度がひとつだけ上の概念を特にLUBと言います。正しく「褒める」「尽くす」ためには、抽象度を上げ、常にLUBをとっていく必要があります。難しく聞こえますか? 実際にやるべきことを理解することは決して難しくありません。つまり、自分と相手の両方がハッピーになるような「尽くす」「褒める」をやるだけです。
抽象度を上げ続け、その都度LUBを取ることの繰り返しの果てに戦争と差別がない世界が現れます。自分と相手の一つ上の抽象度は、隣の誰かを含みます。理論的には、抽象度の上昇とともにこの認識を進化させていけば、地球上全員のためになる、目の前の相手への「尽くす」「褒める」の境地があります。そうすれば、目の前の人には「尽くす」のだが隣の人はどうでもいい、目の前の人は「褒める」のだが自分のことはどうでもいいという状況は減っていきます。もちろん、このような方向に進むのは、こういう境地が自分のゴールに一致するかどうかにかかっています。なので、自分は低い抽象度の煩悩、つまり自分が気持ちよくなるだけのために、あるいは自分のいつの間にか出来上がった無意識の反応パターンを維持するためだけに「目の前のその人に尽くし、褒める」という道を選ぶ人がいれば、それはそれで仕方のないことです。しかし、これを読んでいる方はそうではないと信じます。抽象度の高いゴールを設定し、目の前の絶えざる実践としての「尽くす」「褒める」がきっとあなたにもできるはずです。