現代人は、活字に接する機会が増えています。
インターネット身近なものになり、ソーシャルメディアが次々と生み出されてきたことが一番の要因です。
ツイッターやフェイスブックを活用している人は大勢いますし、単純にグーグルで検索してサイトを閲覧するということも多いでしょう。
そこで重要になってくるのが、活字を読み解く力です。
この力のいかんによって、触れることのできた活字から取ってこれる情報の質と量が大きく変わるからです。
活字を読み解く力、つまり読解力があれば、それだけ豊かな人生を送ることができるようになるといういうのは言い過ぎではないでしょう。
そこで今回は、読解力について書いてみたいと思います。
この記事を読むことで、読解力とは何か、読解力をつけるにはどうすればいいのかがわかるようになるはずです。
読解とは何か
読解とはどういうことでしょうか。
一般に読解といえば、国語における読解問題が思い浮かぶかもしれません。
ですがこの記事では読解を、「主に活字で書かれた情報をできるだけ正確に理解すること」と定義してみたいと思います。
実はこの「できるだけ正確に」というところが非常に難しいのです。
「そんなことはない、自分はしっかりと文章を読めているはずだ」と思う方もいるかもしれません。
それがなかなかそうもいかないのです。
読解の難しさには、「情報の歪み」というものがあるからです。
情報の歪みとは、そこで述べられていることが歪んで伝わるということです。
この「情報の歪み」には2種類あります。
1つは、情報側が生み出す歪みで、もう1つは、読み手の認識が生み出す歪みです。
順番に説明していきましょう。
情報側が生み出す歪み
伝言ゲーム
伝言ゲームという遊びをご存知でしょうか。
集団が列をつくり、最初の1人にメッセージを伝え、それを順番に最後の1人まで伝えていくというゲームです。
メッセージを伝える際には、伝える人と伝えられる人以外には聞こえないようにするというのが重要なルールです。
そうすると、最後に1人に伝わる頃には思ってみないようにメッセージが変質します。
これ自体は遊びなので、他愛もないものなのですが、実はこれが読解にも本質的なところで関わってくるのです。
仏典
いまから約2600年前にインドでうまれた釈迦は、生涯を通じて独自の哲学を展開し、多くの地を説いてまわりました。
その教えはいまもなお我々の生活に影響を与えています。
たとえば、「縁起でもない」という言葉がありますが、この「縁起」とはもともと仏教用語です。
このような、日常生活に溶け込んだ仏教用語はほかにもたくさんあります。
さて、釈迦の教えはどのように伝わっていったのでしょうか。
そもそも釈迦は教えを文字によって記すことを許しませんでした。
なので釈迦の存命中は、教えは口伝によって伝えられました。
釈迦の入滅後(死後)になると、釈迦から直接教えを受けた人たちや、そのまた弟子といった人たちによって経典(教えを文字でまとめたもの)が成立するようになりました。
有名な「法華経」などがそれにあたります。
さらに時代が進むと、そういった経典を解説した「注釈書」というものが現れます。
たとえば聖徳太子が著したとされる「三経義疏」は、さきほどあげた「法華経」の注釈書です。
そして現代なると、その聖徳太子の「三経義疏」を解説した本もあるでしょう。
もちろん、それぞれの経典や注釈書にはその都度の意義は存在しますが、人を通じて伝言しているため、釈迦のオリジナルな考えからすれば、情報の歪みが起こってしまうのは避けられないでしょう。
実際に時代が下るほどに、どう考えても釈迦の教えではないだろうという内容が仏教に入り込んでくるようになります。
釈迦の教えはあくまで例ですが、情報とはこのように、オリジナルなものから離れるほどに歪むという性質があるのです。
情報側の歪みにどう対処すべきか
ということは、いくらあなたが目の前の文章を正確に理解しようとしたとしても、その文章はすでに歪んだ情報である可能性があるということです。
どうすればいいのでしょうか。
正確な読解を心がけるためには、目の前の文章だけにこだわるのではなく、一次情報にアクセスするべきです。
たとえば、ある事件を扱ったネット上の記事があったとして、それをできるだけ正確に理解したいとします。
その記事には、情報源となったものがあるはずですから、そこまでさかのぼって読むということです。
記者が参考にした共同通信が配信したニュースも目を通す、といった感じでしょうか。
そうすれば、目の前の記事を読むにしても、単純に記事を読むよりも深い理解を得られます。
できるだけ一次情報に触れていく
そしてできることなら、記事に書かれた事件が起こった場所や当事者に直接触れられるといいでしょう。
そのほうが共同通信や記者を経由していないぶん情報の歪みが少ないからです。
また、その記事を書いた記者に会うこともおすすめです。
そうすることで、記事からだけでは読み取れなかった記者の体感を感じることができます。
これらのような方法で認識を深めた上で記事を読めば、情報が伝わってくる間に生じる歪みの影響を少なくできるはずです。
読み手の認識が生み出す歪み
たくさんの一次情報に触れ、その上で文章を読むことができたとしても、それでも情報が歪んでしまうことがあります。
それは読み手であるわれわれの認識そのものに歪みがあるからです。
それについて説明していきたいと思います。
スコトーマ
コーチングの概念で「スコトーマ」というものがあります。
わたしたちはそれぞれ、全く別のものを重要であると考えて生きています。
これは意識に上がっているものだけではなく、無意識もふくめた広い領域の中での話です。
たとえばあなたが警察官であったとします。 街を歩いていて人とすれ違った時、不審な人物を見かけました。
多くの人はなんだか変な人がいるなと感じるだけであったり、あるいはその存在に気づきもしないかもしれません。
しかし、警察官であるあなたは、それまでの経験から得られた知識を動員してその不審者を見つめます。
武器を持っているのか、犯罪を犯して逃亡中なのか、女性を襲う暴漢なのか、ありとあらゆる可能性を感じます。
このように、その人が過去にどういう経験をしてきたかによって、対象の認識が異なるのです。
そして、認識の外側にある対象や、領域そのもののことを「スコトーマ」といいます。
警察官ではない人はちょっとくらい怪しい人を見かけたとしても、まさか「武器を持っている」とは思わないでしょう。
この「こいつは武器を持っているかもしれない」という認識がスコトーマです。
わたしたち人間は、それぞれ違った形で必ずスコトーマを持っています。
1人として同じ過去の経験を持つ人間はいないし、だからこそ今何を重要と思って生きているのかも人によって全く違うからです。
読解はスコトーマとの戦い
このスコトーマの原理は、読書をする際にも同じように働きます。
ある著書を読み解こうとしたとします。
幸運なことに、著者に会って話を聞くこともできました。
それでもわたしたちはその著書を歪んだ形でしか読めないということなのです。
なぜなら、著者の見ている世界と読み手の見ている世界が一致することはないからです。
残念なことに、著書がそこに込めた意図を100パーセント純粋な形として理解することは不可能なのです。
どのようにスコトーマと戦っていくか
その中にあって、できるだけ著者が述べていることを純粋に理解する方法とはどのようなものでしょうか。
原理だけ言えば、著者と同じようなものの見方ができるようになればいいということになります。
著者と同じ記憶を持てばそれが再現できます。 あたりまえですが、それは不可能です。
というよりも、そもそもそれができるのならば著者の本を読む必要がなくなります。
完璧に著者になりきるのは不可能だとしても、できるだけ著者の記憶の状態に近づけるための方法を2つ紹介します。
関連分野の知識を習得する
1つは、著者が述べている分野の関連知識を増やすということです。
たとえば、著者が現代の経済について語っている本を読むとしましょう。
そこには必ず議論の下敷きとなった学問的な知識があるはずです。
たとえば、ミクロ経済学やマクロ経済学は当然含まれるでしょうし、現代の経済であれば政治の知識も下敷きにしているでしょう。
また、場合によっては金融の知識や銀行史、経済学を成り立たせている数学理論なども知っておくとよいかもしれません。
とにかく、ひとつの内容について語るということは、いろいろな分野を下敷きにしているはずなので、それをあらかじめ学んでおくということです。
著者のその他の著作を読む
また、その著者がたくさん本を出している人ならばしめたものです。 読むつもりのもの以外の本も全て目を通しましょう。
そうすることで、著者のオリジナルな視点というものがわかるようになってきます。
著者の本を1冊読んだだけではわからなかった視点が、たくさん読むことによって浮き彫りになってくるということです。
読み手がスコトーマによって読み解きを邪魔されないためには、以上のような方法が有効です。
アプリオリはない
さて、情報側の歪み、読み手のスコトーマによる歪みそれぞれへの対策を書きました。
これらを意識すれば、正確な読み解きに近づけるはずです。
ただし、ここで最後に強調しておきたいのは、そもそも絶対的なものは存在しないという事実です。
ゲーデルをはじめとするさまざまな学者たちの知的リレーによって、20世紀にこのことが証明されました。
つまり、カントのいうアプリオリ(何者にも先立って自明であるとされるもの)は存在しないということです。
ということは、唯一絶対の正確な読み解きも存在しないということになります。
つまり、読解とは常に必ず誤読を生むものなのです。
では、できるだけ正しく読もうとする態度は不要なのでしょうか。
決してそんなことはありません。
正しくない読み解きよりも、完璧ではないがかなり正しい読み解きの方がよいはずだからです。
あくまで絶対的な正解はないと肝に命じた上で、できるだけ正確な読み解きを行っていきましょう。
まとめ
この記事では、読解力をつけるために気をつけるべきことを書きました。
情報の歪みをできるだけ減らすために、一次情報に触れる必要性と、スコトーマを外す方法を紹介しました。
また、唯一絶対の正しい読み解きは存在しないということでした。
参考にしていただけると幸いです。