先日出会った人は、こんなことを言っていました。
「あることを思い出すと、死んでしまいたいような気分になることがある」 なんとも穏やかではない話です。
その人に何があったのかは知りませんが、どうしても忘れられない嫌な記憶があるようです。
そこまで極端ではなくても、みなさんも後悔していることの1つや2つはあるのではないでしょうか。
もしかしたら現在も、後悔で夜も眠れぬ日々を過ごしている方もいらっしゃるのかもしれません。
先に言っておけば、後悔は無意味であり、それどころか人生に多大な悪影響をもたらします。
この記事では、後悔がなぜ無意味なのかについて、そしてどのように後悔を手放していけばいいのかについて書いていきたいと思います。
後悔とは
まず、後悔とはなんなのかをはっきりとさせておきましょう。 辞書的な定義は次のようになっています
こう‐かい〔‐クワイ〕【後悔】goo辞書より引用
- [名](スル)自分のしてしまったことを、あとになって失敗であったとくやむこと。「短い快楽に永い―」「今さら―しても始まらない」
ここでポイントとなるのは、悔やむ対象は過去であるということです。
まだ起こっていない出来事を悔やむというのもおかしな話でしょう。
もうすでに起こった出来事を対象にして、ネガティブな感情とともに思い悩むことが後悔であると言えます。
ネガティブなときの脳の状態
さて、こういった後悔の感情に満たされているときの脳の状態はどうなっているのでしょうか。
後悔をするというのは、嫌な記憶に囚われている状態です。 そのときには、前頭前野に認識のパターンが出来上がっています。
なんであんなことをしてしまったのだろうという後悔にさいなまれるときには、出来事の記憶を思い出すことと、それに対するネガティブな評価が一体になったパターンが存在するのです。
前頭前野の一部は、視床下部と直結しています。 視床下部には自律神経をコントロールする役割があるので、前頭前野のパターンによって繰り返し嫌な気持ちにとらわれると、やがてそれは自律神経を刺激するようになります。
そうすると、なんだか体が重くなったり、震えてきたり、冷や汗が出たり、呼吸が苦しくなったりというように、ありとあらゆるネガティブな身体現象がどんどんと強まっていくのです。
たかが後悔といえど、ここまでくるとたいへん厄介であると言えるでしょう。
後悔は論理的に間違っている
先ほどは、後悔することが体に及ぼす影響について考えてみました。
それだけでも、いま後悔をしている人は一刻も早く後悔を手放したいと考えることでしょう。
ここでは、もう少し抽象度の高いところで、後悔について考えてみましょう。
つまり、後悔に意味があるのかを論理的に考えてみようということです。
結論を先に言えば、後悔は論理的に考えても意味のあるものではありません。
後悔をしたからといって、まったくもって不毛であるということです。 それには二つの根拠があります。
順番に説明していきましょう。
1:勝ち目のない仮想敵と比べるという点
1つ目は、後悔が勝ち目のない仮想の自分と比べているという点です。
後悔をする際には必ず理想の状態と比べています。
あのとき自分はもっとこうしていたら、いまの自分がもっと良い状態になっていたはずだ、という具合です。
この際の仮想の自分は、必ず過去の実際の自分よりも優れたものを想定します。
つまり、絶対に勝ち目のない戦いなのです。
勝ち目のない戦いを自分で設定しておいて、それと比べて劣っている自分を悔いるというのはナンセンスであるとわかると思います。
比較すること自体が間違っています。
はたから見ると滑稽なのですが、後悔しがちな人は、どうしてもそういう思考ループに入ってしまうのです。
2:過去は変えられないという点
2つ目は、過去は変えられないという事実です。
先ほどのような仮想の自分との比較を、百歩譲って認めたとしましょう。
そして過去の自分の選択と、実際に自分の選択を戦わせます。
実際の自分の選択を勝たせるためにはどうすればいいでしょうか。 実際の自分のした選択を変えるしかありません。
当たり前ですが、これは不可能です。
過去に戻るタイムマシンでもあれば別の話ですが、残念ながらそのようなものはまだ発明されていません。
ということで、後悔をすることが論理的に無意味であることがお分りいただけたでしょうか。
後悔に陥るにはうまみがある
それでもなぜ人は後悔をするのでしょうか。
心身ともに辛いわけですし、論理的に考えても無意味なはずなのに、人は後悔します。
これは、後悔することそのものに何かうまみがあると考えるしかありません。
コーチングの用語で「コンフォートゾーン」という概念があります。 コンフォートゾーンとは「安心できる領域」のことです。
このコンフォートゾーンにいる間は、何か新しい達成をすることはできません。
しかしながら、昨日までの安全は守られてきたという不思議な安心感があります。
現実や未来へ目を向けて、何かを変えるためにはコンフォートゾーンを飛び出さなくてはなりません。
それは、後悔とはまた違った不安や恐怖を伴なうことがあるでしょう。
そういった痛みを受けずにすむために、後悔の海に沈み込んでいるということは考えられないでしょうか。
後悔をしている間は、現実や未来に目を向けて前に進んでいく必要がないからです。
その意味で、後悔をしている人には後悔したいからしているという面があるように思えます。
もしかしたらこの言い方は、後悔に苦しんでいる人にはいささか厳しすぎるかもしれません。
しかし、ここまで読み進めていただけた方は、変化を恐れず、現実や未来を見据えて後悔を手放していただきたいと思います。
後悔しない生き方をするための観点
それでは、後悔を手放し、後悔をしない人生を送るにはどうすればいいのでしょうか。
それには、時間の捉え方を変えていただく必要があります。
みなさんは、時間は過去から未来へと流れると感じているのではないでしょうか。
実はこれは、伝統的なユダヤ・キリスト教的な世界観によってもたらされた考え方です。
唯一絶対の創造者としての神が世界を作り、その長い因果関係の結果、いまがあるという考え方です。
この時間観では、構造上必ず後悔が生まれてしまいます。
なぜなら、もうすでに起こってしまった変えようのない過去が、現在や未来を形作るという考え方だからです。
誰しも失敗をしたことが1度や2度はあるでしょう。
しかし、失敗をしたが最後、それはもう絶対に変えられない過去として、現在や未来を形作ってしまうのです。
これでは後悔をするなというほうが無理な話です。
そこで、後悔をしない生き方をするためには、時間の流れの捉え方を逆向きにしてみてほしいと思います。
つまり、時間は未来から過去へと流れると考えるのです。
未来が時間とともにだんだんと近づいてきて、現在になる。
そして、現在は一瞬後から過去へと遠ざかっていく。
このような考え方です。
実はこの時間観は、仏教で言えばアビダルマという哲学や、現代における分析哲学という分野で主張されている考え方です。
このように考えれば、未来に自分がどうありたいかを考え、それにもとづいて現在どのように振る舞うかが決められるとわかります。
たとえば、未来自分は経営者になりたいから経営学を勉強しよう、とか、未来自分は俳優になりたいから演劇論を勉強しようといったところでしょうか。
徹底的にこのような考え方が実践できれば、過去は参考の対象であったとしても、後悔する対象ではなくなります。
過去が現在を決めるのではなく、未来が現在を決めるからです。
未来とはゴールのことである
時間は未来から現在へ、現在から過去へと流れているという考え方をより腑に落としていくために、もう少し話を進めたいと思います。
現在の原因となる未来とはどのようなものでしょうか。
もちろん、自分にとって望ましいものであるべきでしょう。
自由に設定できる未来をわざわざ嫌なものにする必要はないからです。
たとえば、お金持ちになりたいのなら、そう設定すればいいし、博士になりたいのならそう設定すればいいでしょう。
そうはいっても、自分の能力ではお金持ちや博士なんて無理です、と思われる方がいらっしゃるかもしれません。
強調して言いますが、それこそが過去が原因として未来が決まるという考え方なのです。
能力という過去を理由に未来の設定を制限しているからです。 未来の設定に、過去は一切関係ありません。
自分の望むままに設定していいのです。 そして、そうして設定された未来のことをコーチングでは「ゴール」といいます。
まずは、このゴールを設定してください。 そして常にこのゴールを達成するためにだけ今があると考えましょう。
未来のゴールのために今できることを全力でやる、これこそが後悔しない生き方なのです。
《*ゴール設定に関する詳しい説明はこちらを参考にして下さい→「コーチング理論から考える正しい目標設定の方法」、「コーチング理論から考える一歩先に進んだ目標設定の方法」》
まとめ
後悔とは過去の失敗に思い悩む行為であり、意味のないことであるという内容でした。
そして、後悔しない人生を送るためには、時間は未来から現在へ流れると考え、望ましい未来のゴールに基づいた生き方をするべきであるということでした。
参考にしていただけると幸いです。