ある子供の指導を長期間していると、だんだんと頭が良くなっていく様子がよくわかります。
表面的には、話すことが大人びてきたり、テストの点が良くなってきたりと子供によっていろいろですが、本質的なところの成長はどの子供も共通です。
成長のポイントはふたつあり、ひとつは「抽象度の操作能力」、もうひとつは「知識の獲得能力」です。
これらが上手になればなるほど、どんどんと頭がよくなっていきます。 頭がいい人が持つ能力そのものであるといってもいいでしょう。
また、大人でも、この人は頭がいいなあと感じる人は、これらの能力が極めて高いと感じます。
この記事では、「抽象度の操作能力」、「知識の獲得能力」について解説し、頭がよくなるためのヒントを提示していきたいと思います。
抽象度操作能力
抽象度とは
抽象度とは何でしょうか。
「希望の大学に合格した」という事実があったとします。
また、「大好きな人と結婚した」という事実もあったとします。 これらの共通点は何でしょうか。
「嬉しい出来事」とでも考えることができます。
次に、「嬉しい出来事」の横に、「悲しい出来事」を並べてみます。 これらの共通点は、「出来事」ということになります。
このように世の中の物事は、共通点の有無によって上下関係を作っていくことができます。
さきほどの例で言えば、あとにいくにつれてだんだんと上にあがっていくようなイメージです。
このような上下関係を抽象度といいます。
抽象度を操作する
抽象度は操作することができます。
操作というとなんだか難しく聞こえますが、実は頭の中では自然に行われていることです。
たとえばあなたが、「こないだ猫が車にひかれそうになってて、危ないと思ったら猫がジャンプして、車のボンネットに着地したんだよ。
すごいと思わない?」という話をしたとします。
気の置けない友人同士のあいだではいかにもありそうな会話でしょう。
実はこの何気ない会話の中では、抽象化が起こっています。
起こった出来事の具体的な説明がはじめにあり、最後に「これはすごいことである」という抽象化が起こっているということです。
このように、抽象度の操作、つまり抽象度の上げ下げは、思考の中では極めて自然に行われているのです。
抽象度の操作が上手な人は説明が上手
思考する際には自然に抽象度の操作をしていると言っても、それが上手かどうかは人によってバラバラです。
たいへん上手な人もいれば、そうでもない人もいます。 では、抽象度の操作が上手であるとはどういう状態なのでしょうか。
ひとことで言えば、状況に合わせて適切な抽象度が選択できるという状態です。
さきほどの会話が、「こないだ生き物が危ない目にあってて、とっさの行動をとったと思ったら、普通は起こらないような結末になったんだよ。
すごいと思わない?」という内容だったとしてみてください。 なんだかよくわからないでしょう。
前半の具体的な説明が、抽象的すぎて中身が想像できないからです。
このように、物事の思考や説明には適切な抽象度があります。
状況に合わせて適切な抽象度を見抜き、実際に抽象度を操作しながら思考や説明を進めていけることが、頭がいい人の条件であると言えます。
ものごとの本質をつかむ
抽象的な説明はわかりにくいという側面があるので、悪いことのように思えますが、実はそうとは限りません。
適切に抽象度の高い表現であれば、ものごとの本質をシンプルに表しているという良い側面があります。
たとえば、数学などはその代表例でしょう。 1 + 1 = 2 という式も、世の中にあるどのようなものであれ、一つのものと一つのものを足し合わせると、二つのものになるという本質的な原則を表現しています。
本質をシンプルに表現できれば、それを広い範囲に応用して使うことができます。
1 や 2 にどのようなものを入れても成り立つということは、それだけいろいろなことに使えるということでしょう。
ポストとポストを足せば、二つのポストになりますし、国と国を足しても二つの国になります。
このように抽象度の高い思考は、本質をつかむことであり、いろいろなことに応用した考え方ができるという側面があります。
対機説法
ところで、仏教の概念で対機説法というものがあります。
仏の教えを聞いて修行する能力のことを機根といいます。
仏教では、相手の機根にあわせて教えを説くことが推奨されます。
そうでなければせっかくのありがたい教えも、相手が理解できなかったり、間違った理解をしてしまうからです。
この対機説法は、相手の抽象度に合わせて説明の抽象度を操作することであると言えます。
ありがたい教えは、抽象度が高く本質的なものであるはずです。
だとしたら、人によっては抽象的すぎてなんだかわかりにくいということになりかねません。
すべては無常である、と言われてもなかなかピンとこないでしょう。
だからこそ、その人の抽象度に合わせて説明してあげることが重要なのです。
抽象度があまり高くない人には、具体的なたとえ話をたくさん交えながら、段階を踏んで説法をしていきます。
事実、釈迦が語ったとされるたとえ話はたくさん残されています。
極めて本質的で抽象度の高い教えを、その人の抽象度に合わせてさまざまな教えが展開されたからこそ、大昔の教えがいまも残されているのです。
この対機説法からもわかるように、頭のいい人とは、場面に合わせて抽象度の上げ下げを上手にする能力の高い人であると言うことができるでしょう。
知識の獲得能力
知識とは
知識とは何かについての哲学的議論には、たいへん長い歴史があります。
ここでは知識のことは、正しい認識のことであると理解しておけば良いでしょう。
ちなみに、知識そのものは情報化されたものですが、もう少し具体的な身体レベルで運用されるものを技術といいます。
その意味で知識と技術は、現れ方の違いこそあるものの、本質的には同じものであると言えるでしょう。
知識が必要な理由
頭が良くなるためには、大量の知識を獲得する必要があります。
なぜでしょうか。
具体的に考えてみましょう。
この世界に、「りんご、バナナ、みかん」という三つの知識があったとします。 それらの共通点にくだものという名前をつけました。
上述した抽象化がひとつ起こったのです。
さて、ここに新しい知識「マグロ」が加わったとします。
そうすると、「りんご、バナナ、みかん、マグロ」の四つの知識を抽象化するには「くだもの」では不適切です。
だからそれら四つの知識を抽象化した共通点として、「食べ物」という名前をつけました。
このように、新しい知識を獲得することではじめて新しい抽象化が起こります。
裏を返せば、新しい知識を獲得することなしには抽象化が起こらないということです。
抽象化が起こらないということは、先にあげた抽象度を自由自在に操作するということができません。
できたとしてもたいへん貧しいものになります。 だからこそ大量の知識を獲得することが大切なのです。
スコトーマ
ここでコーチングの概念であるスコトーマについて説明したいと思います。
スコトーマとは、認識上の盲点、またはその中に隠れた知識のことを意味します。
わたしたち人間は、この世界をありのまま見ているような気になっていますが、実はまったくそんなことはありません。
それどころか、わたしたち一人一人がそれぞれまったく違う偏り方でこの世界を見ています。
たとえば、ある人が森の中を歩いていたとします。
その歩いている人が、いわゆる一般の人である場合と植物学者である場合では、見えている世界がまったく違うということは、少し考えれば分かるでしょう。
植物学者は植物に関する知識がたくさんありますから、この木はめずらしいなとか、この森は古くからあるなとか、さまざまなことに気がつきます。
ところが、一般の人は知識がないので、そういったことが認識にあがりません。
このような認識にあがらない知識のことを総称して、スコトーマと呼ぶことができます。
新しい知識がある場所
さて、そうすると、新しい知識はどこにあるのかということがわかってきます。
その人にとっての新しい知識は、その人のスコトーマの中に隠れているのです。
ここで厳しいのは、スコトーマの中にあるものは本来認識できないという事実です。
さきほどの例のように、普通の人にとって、深い植物の知識はスコトーマの中に隠れています。
隠れているのだから、当然その知識を認識することはできませんし、場合によってはそこに新しい自分の知らない知識があるということにも気がつきません。
新しい知識を学ぼうと思っても、学べないことになります。 結果的に多くの人は、新しい知識を学ぼうと思っても、実は今までの自分の知識の中で新しいことを学んだ気になっているだけ、という状況に陥ってしまいます。
新しい知識を獲得するのはこのような構造的な難しさがあるのです。
学ぶことが上手な人
学ぶことが上手な人、言いかえると本当に頭のいい人とはどのような人でしょうか。
スコトーマに隠れた知識を学ぶことができる人である、と言うことができそうです。
たとえば、セミナーや講義をすると、「それはもう知ってる」という反応をする人がいます。
残念ながらこういった人は、学ぶことが上手な人ということはできません。
自分のすでに知っている知識をもとに、こちらの言っていることを知っていると判断した結果、もののみごとに新しい知識をスコトーマに隠してしまっているのです。
こちらが新しい知識を提示しているにもかかわらず、その人が認識の盲点に入れて受け取らないということです。
学ぶのが上手な人はこういう反応をしません。
常に自分にはスコトーマが存在し、そのスコトーマの中にこそ自分にとっての新しい知識があるのだとよく理解しています。
だからこそ、ものごとに対して「もう知っている」、「ぜんぶわかった」という早計な判断を下すことはしません。
もちろん、ほんとうにそう感じた時はそう表現しますが、よくわからないものに対して早計な判断をすることはないのです。
そのように判断をいったん停止し、スコトーマの中にある新しい知識を見ようとする態度こそが真に知的な態度であり、頭のいい人の能力でもあると言えるでしょう。
まとめ
この記事では、頭がいい人の持つ能力について説明しました。
一つ目は抽象度の操作能力であり、二つ目は新しい知識を獲得する能力であるということでした。
参考にしてくださると嬉しいです。