世の中にはいろいろな悩みがあるのだな、と驚くことがときどきあります。
やりたいことが見つからないという悩みはなんとなく想像がつくのですが、やりたいことがありすぎて困るという悩みを持つ人もいるようです。これには少々びっくりしましたが、少し考えてみると、そういうこともあるだろうと思いました。なぜなら、現代の社会は価値観があまりにも多様化された上、望むと望まざるとに関わらずにそれらの情報が入ってくるからです。今回の記事では、やりたいことが多すぎて振り回されてしまう場合、どのように考えていくべきかの話をしたいと思います。
《やりたいことが見つからなくて困っている人はこちらの記事を参考にしてください→「そうはいってもやりたいことが見つからないんです、そんな人がどう考えるべきか」、「やりたいことがない人、あなたはもっと喜ぶべきである」》
やりたいことがたくさんあるということは問題なのでしょうか。やりたいことが見つからなくて困っているという人からすれば、うらやましい悩みでしょう。心からやりたいことがたくさんあるのであれば、それ自体は何の問題ありません。その場合の問題とは、たくさんのやりたいことを処理するための自分の能力が足りなくて困っているということでしょう。それはタスクの処理能力を上げればいいだけですし、遅かれ早かれ乗り越えられ問題です。
やりたいことが多すぎて困っているという場合、そのときの悩みの本質なんなのでしょうか。それは、本当はやりたいわけではないのに、これはやりたいことだ、やらなくてはならないと思っていることが多すぎるということではないでしょうか。本当はやりたくないのだから、できるようになるための処理能力はいつまでたっても上がりません。そして、やりたいと思いこんでいることにただただ振り回されてしまうのです。 あれもこれもと振り回されているうちに時間だけが過ぎ、途方に暮れてしまうのでしょう。
なぜそのような状況が生まれてしまうのでしょうか。そのことを理解するために、まずは自我とは何かを掘り下げて考えてみましょう。 自我とは宇宙にある全情報を、自分の重要なものの順番に並べ替える関数であると考えます。つまり、世の中の物事を、自分なりに大切なもの順に並べ替える働きのことを自我というのです。たとえば、あなたは何者ですかと問われたら、名前、家族、仕事、趣味などを答えると思います。厳密な順番は別としても、自分にとって重要なものから答えていくはずです。 地球の裏側の国の人と同じ赤い血をした人間です、という答え方はしないでしょう。このように自我とは、自分の重要なものが寄り集まり、ときに形を変えながら成立している状態に名付けた名前のことであると言えます。
このとき自分を形成している自我の一部には、名前や家族といった具体的なものだけではなく、価値観、信念、嗜好といった抽象的な性質も含まれます。たとえば、曲がったことは許せないとか、背の高い女性が好きとか、セロリのにおいがどうしても苦手といったようなことです。これらの価値基準も自我の一部としてその人を形成しています。
そもそも自我はどのようにして出来上がっていくのでしょうか。多くの場合、過去の経験によって自我は組み上がっていきます。たとえば、セロリのにおいが苦手な人は、おそらくどこかでセロリのにおいで嫌な思いをしたはずです。その結果、その人の自我の重要な部分にセロリのにおいを嫌がる性質が組み込まれます。結果として、その後の人生でセロリに出会うと、においを警戒するような行動をとるようになるのです。
このように考えてみると、あなたが下す価値判断や行動は、過去の経験からすでに出来上がっている自我によって決定されるということがわかります。やりたいことがたくさんある人は、自分の自我がそうさせているということです。はじめに言ったように、それが本当に自分のやりたいことであれば問題ありません。しかし、本当は大してやりたくもないのにやらなくてはならないと思っていることが問題なのです。それでもその人の自我は、それがやりたいことである、やらなくてはならないと感じるように出来上がっています。なぜこのような勘違いが起こってしまうのでしょうか。
これは自我が形成される過程の中で、本当に自分に必要な価値基準以外が刷り込まれたことに起因します。本当は自分にとっては重要ではないのに、それがとても重要なことであるかのように刷り込まれてしまったということです。たとえば、テストの点でいい点をとることは自分にとって大して重要ではなかったとしましょう。なのに、親がそのような価値観を強く押し出したため、まるで自分も心からそう感じているかのようになってしまうようなケースが典型です。親に限らず、教師、権力者、メディア、友人など、自分にとって強く影響を与えるものはたくさんあります。そういったところから入ってきた情報を、自分にとって重要なものであると勘違いして受け入れてしまいます。その結果、自我は歪んだものになり、やりたいと思い込んでいる物事があふれ、それにおしつぶされてしまいそうになるのです。
厳しいことに、人間が自我を作っていく際には、必ず一度は外からの意見を受け入れなくてはならないという事実です。それは人間が、タブララサ(白紙の状態)として生まれてくるからです。外からの情報が自分にとって必要なものなのかどうかを判断しようにも、その判断する拠り所となるような情報は外から受け入れなくてはならないという皮肉な状況です。構造上、好むと好まざるとに限らず、一度は外部からの情報を受け入れなくては自我が出来上がらないのです。
ということは、一度出来上がった自我を再点検していくことに活路を見いだすしかなさそうです。自分がこれは大事だと思っていること、これが好きだと思っていること、これをやりたいと思っていることなどすべてを、本当にそうなのだろうか、と吟味するということです。それは自分以外の誰かによって仕掛けられ、自分がやりたいと思い込まされていたのではないだろうか、という視点を持つということです。その上で、それでも自分はこれをやりたいのだ、と確信が持てれば問題ないでしょう。そうでなければ、そんなものをやりたいことに掲げるのはさっさとやめましょう。 そういった吟味を繰り返した上で選び抜かれたやりたいことは、自分が本当にやりたいことのはずです。本当にやりたいことであれば、いくらたくさんあったとしても必ず処理できるようになります。そうすれば、やりたいことに振り回されて悩むようなことはなくなるでしょう。
やりたいことに振り回されている人は、それが本当に自分のやりたいことなのか、誰かに仕掛けられたのではないかという視点を持つ、ということでした。参考にしていただけると幸いです。
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「やりたいことがある人どうしが集まると揉めるのでしょうか」